二・二六事件、指揮官による出動目的指示
◎歩兵第一連隊
●第十一中隊(壬生誠忠中尉、170名、陸軍大臣官邸・陸軍省)
(1) 壬生中尉曰く「命令、目下三宅坂付近に暴動が発生しつつある。よって中隊は鎮圧に当たるため只今より出動する」(P68)「第一中隊は只今より首相官邸付近の警戒に当たるため出動する」(P76)
●機関銃隊(栗原安秀中尉、291名、首相官邸)
(2) 小高二等兵:午後三時頃、非常呼集がかった。呼集をかけたのは班長で、「電灯はつけるな、そのまま聞け。もっか帝都に暴動が発生した。これを鎮圧するため銃隊は宮城方面に出動することとなった」といった。・・・栗原中尉が隊列の中央に立って訓示を述べた。昭和維新を断行するという意味のもので、具体的な行く先には触れなかった。・・・出発・・・銃声が聞こえた。何のことはない。われわれはここ(首相官邸)を襲撃するためにやって来たのである。(P131)
◎歩兵第三連隊
●第一中隊(坂井直中尉、155名,斉藤内府私邸、渡部教育総監私邸)
(3) 坂井中尉曰く「第一師団は近く渡満するが、国内の悪者を片づけておかないと満州に行っても安心してご奉公することが出来ぬ。そこで只今からその悪者を退治に出かける」「目下都内では総選挙を前にして選挙戦がたけなわであることから推して選挙戦を妨害する輩を鎮圧するために出動するものと考えた(大八木二等兵)」(P179)
(4) 高橋少尉曰く「只今より昭和維新を断行する。中隊は只今あるところに向かって前進する」(P173)
(5) 木部伍長:坂井中尉は蹶起趣意書を読み上げた。読み終わると一同を見渡し、「以上、蹶起趣意書にもとづき、中隊は明朝を期して赤坂方面に発生しつつある暴動鎮圧のために出動する・・・」といって斉藤内府私邸付近の地形を説明し、編成と任務を下達した。(P195)
(6) 丸伍長:午前零時、非常呼集がかかった。今回の呼集は単なる暴動鎮圧のための出動とばかり思っていた。これからの行き先は斉藤内府私邸であることを告げられた。私はなおその時にも私邸を警護して暴動から守るものと思っていた。(P159)
●第二中隊(第一中隊に配属、18名)
(7) 藤城軍曹:渡辺曹長が安藤大尉からの命令を受領して(それを読み上げた)「目下帝都には暴動が起こりつつある。このため連隊は直ちに出動しこれを鎮圧することとなった」(P202)
●第三中隊(清原康平少尉、152名、警視庁占拠)
(8) 清原少尉曰く「注目!・・・今から重大な命令を下達する。天皇の命令により今朝5時を期し、重臣、財閥を倒し、昭和維新を断行する」(P222)
清原少尉曰く「第一師団の渡満は軍上層部のわれわれに対する謀略である。このため我々は先駆となって昭和維新を断行する。第三中隊は第七中隊とともに警視庁を襲撃する。合い言葉 尊皇―討奸」(P227)
●第六中隊(安藤輝三大尉、159名、鈴木侍従長官邸)
(9) 谷中軍曹:午前一時、非常呼集がかけられた。まもなく命令が来た。「第六中隊は只今から靖国神社参拝に向かう。第二種着用!」(P267)
(10) 大谷二等兵:・・・やがて安藤大尉が抜刀した。「気を付け!中隊は只今より靖国神社に向かって出発する」。首相官邸にさしかかったとき分隊長が、「我々の仲間がまもなくここを襲撃する。第六中隊は鈴木侍従長私邸にいくんだ」といった。私は愕然とした。靖国神社参拝ではないのである。
●第七中隊(野中四郎大尉、156名、警視庁占拠)
(11) 野中大尉曰く「真崎閣下の罷免を認めればどんなことになると思うか。軍部はたちまち統制派に握られ重臣財閥に圧力をかけ、何でも思いのままに事をやり出すだろう。今苦しんでいる民百姓はますます苦しまなくてはなるまい。真崎罷免問題はこのように重大で憂うべき人事なのだ。だがこれに反抗して更迭を阻止しようとするものがいない。・・・そこで事態を見かねた我々は、歩三、歩一、近歩三を中核とした二ヶ師団をもって立つこととなった。これを具体的にいうと、明朝を期してシカジカのことを決行する」(野中大尉はここで攻撃目標<警視庁>をはっきり指示した)
●第十中隊(鈴木金次郎少尉、142名、警視庁占拠、内相官邸占拠)
(12) 鈴木少尉曰く「先ず、黒板に書いてある内容を説明する。現下の日本は滅亡寸前にある。このようになった原因は天皇を取り巻く側近が悪いからである。そこでこれらの奸賊をやっつけて大政を奉還すれば国家はたちどころに良くなる。よって我々は義軍として蹶起し、昭和維新断行のために行動を起こすことにした。只今より第十中隊は警視庁を占領するために出発する」(P409)
●機関銃隊(銃隊は16ヶ分隊を編成し、1,3,6,7,10中隊に分属)
(13) 山崎二等兵:坂井中尉曰く「目下帝都は相澤事件の公判をめぐり暴動が起こらんとしている。よって我が部隊はこれを鎮圧するため只今より出動する」。かくして四時三十分出発となった。やがて大きな屋敷の前に来ると隊列がさっと散り屋敷を包囲した。これは斉藤内府私邸である。私の分隊は表門にそれぞれ銃を据えて警護に当たった。そこへ坂井中尉が来て、「銃の方向が違う! 銃口は玄関に向けるのだ」といった。私は驚いた。屋敷を警護するのではなく襲撃すると聞いて唖然とした。一体何をしようとするのか? その時になっても私は何も知らなかったのである。(P478)
◎近衛歩兵第三連隊
●第七中隊(中橋基明中尉、138名、高橋蔵相私邸)
(14) 中橋中隊長代理曰く「中隊は只今より、明治神宮方向に前進する」(P39)
松本二等兵:不寝番が押し殺した声で全員を起こし、これから明治神宮参拝を行うのだといった。営門を出て右に折れ、シャム公使館を通り過ぎたところで一旦停止し・・・この時中橋中尉は初めて本当の出動目的を告げた(P20)
兵士達をどう動かすか?
"二・二六事件を主導する皇道派将校達は下士官・兵士を兵舎前に整列せしめ、昭和維新断行のため蹶起する旨、号令をかけた。そして「これより総理大臣官邸・陸軍大臣官邸・参謀本部・警視庁へ向かう」と襲撃目標を指示した"
一般に、出撃する直前の彼ら蹶起部隊中枢部分と兵士達の間における決意伝達の状況を思い描くとき、このようなイメージをもって捉えられているのではないだろうか?
事実、野中大尉、清原少尉、鈴木少尉の言辞に見られるように、彼らが下士官(曹長、軍曹、伍長)のみならず兵士達(上等兵、二等兵)に向かっても「警視庁を襲撃する」とはっきり襲撃目標を指示している事例が幾つかある(8)(11)(12)。
ところがである。名も無き多くの兵士達の証言で編集・構成されたデータ集「二・二六事件と郷土兵」をつぶさに見るならば、全体的にはそうとは言い切れないことが知られるのです。
一般兵士達へ向かってなされた指示を拾い出してみると、
"暴動が発生しつつある。よって我が部隊はその鎮圧のために出動する"というパターンが目立つのです。具体的には、
三宅坂付近に暴動が発生、首相官邸付近の警戒に当たる(1)
帝都に暴動が発生、これを鎮圧するため宮城方面に出動する(2)
赤坂方面に発生しつつある暴動鎮圧のために出動する(5)
一方、
靖国神社参拝に向かう(9)(10)
明治神宮参拝に向かう(14)
というパターンも目につきます。
つまりこのような指示のもとに、多くの兵士達は"なんだか変だなぁ"と首を傾げながら行軍していったのです。
従来、部分的にしか聞こえてこなかった事柄が数多くの体験談・証言を通じてハッキリ確認できるのです。
皇道派将校達は一様に兵士達をかわいがった。
そして兵士達もそうした将校達を心底慕った。
一人の人物(将校)を取り上げれば、安藤輝三大尉はその皇道派将校の仲間内でも人格者として一目置かれていた。兵士達も安藤大尉を尊敬していた。安藤大尉と兵士達の信頼関係は抜群だったのである。
そのような安藤大尉でさえ、出撃時においては兵士達に「靖国神社参拝に向かう」と言わざるを得なかったのです。
ここのところを凝視しておくべきと思います。
ともあれ、二・二六事件関連書ではこうした"ささやかな"側面は強調されることはなく、多くの場合捨象されます。
二・二六事件を概観するための手頃な手引き書「二・二六事件(中公新書)」でもこうした側面があることを読みとることは出来ません。
ある人は"なんでそんな些細なことにこだわる必要があるの?"と怪訝に思われるかもしれません。
いうまでもなく、私がこうした機微な側面に必要以上にこだわるのは、本能寺の変の襲撃状況を雑兵(上等兵・二等兵)の立場から伝える「本城惣右衛門覚書」を解釈する上で、ちょっとした光を当てることが出来るのではないかと考えるからです。
「敵は本能寺にあり」は本当か?
歴史大河ドラマなどでは、光秀の軍勢が桂川を渡り終わったとき「敵は本能寺にあり、今日より殿は天下様に御成りなされ候」と揚言される場面が出てきます。
「川角太閤記」にそう書いてあるのだ、といってしまえばそれまでですが、これは本当でしょうか?
たしかに私も「成敗する対象(敵)は本能寺にあり、本能寺に向かう」くらいの命令は下されたと思っています。
けれどもこの場合の「敵」は"家康"であり、彼ら丹波勢中枢部分は「信長様の命令によりこれより"家康"様を討つ。本能寺に向かう」と号令をかけたと考えるのです。
これについては<その2>に私の考え・推測を書いておきました。
あらためて本城惣右衛門の証言から幾つかの言葉を拾い出してみます。
(1)信長様に腹を召させようなどとは夢にも思わなかった
(2)山崎の方へ行くのだと思っていたら意外にも「京へ向かう」と命令された
(3)家康様が上洛してると聞いていたので、我々が成敗するのは家康様であろうと思いこんだ
(4)屋敷の中で我々は一人の女を捕らえた。その女の口から上様(信長)が白い着物を着ていることを聞き出したのだが、我々はその上様なるものがまさか信長様のことであったとは考えも及ばなかった
こうした惣右衛門の証言には先に摘出した兵士達の証言と響きあうものを感じるのです。
もう一つ書き加えておきます。
それはやはり本能寺と妙覚寺襲撃に関するもので、タイム・ラグの問題です。
どうしてそんなことにこだわるんですか?と怪訝な思いをする人がやはり多いようです。
でも私はどうしてもこの点を問題にしたい。
二・二六事件に蹶起した皇道派将校中枢部分は兵士達を動かす言辞については区々であったけれど、襲撃時間に関しては午前5時を期すと決めていた。
そのため4時50分に目標地点に到着してしまった部隊は10分間その場に待機していたくらいです。
本能寺の変の場合どうであったか?
二・二六事件を主導した中枢部分と明智勢中枢部分とをダブらせて考えるとどのように推理することが出来るのか?
信長が本能寺に宿泊していること、その息子・信忠が妙覚寺に宿泊していること。本能寺の門前に京都所司代・村井貞勝の居宅があること。明智勢はこれらの情報を絶対に知っていた。
なぜ村井邸を襲撃しなかったのか?
なぜ本能寺と妙覚寺を同時に襲撃しなかったのか?
良い考えがありましたらお教えください。
最後に(お詫びをかねて)
訂正・加筆 その二』を作成し終えてから5年半余り。
その間の全くのブランクも何のその。今現在抱いている「本能寺の変」のイメージ・フィーリングにまかせ書きつづってしまいました。
この「謎」はアドリブで書かれています。
人に読んでいただく以上、怪しいところはちゃんと史資料に当たって正確を期すべきなのは判っているものの、今の私にはその力がありません。
特に「検地=武士団・家臣団の根っこを切断する政策=武士団は既得権を剥奪されることを嫌った=直接(他人から)把握されることを嫌った=主体性の根拠を剥奪されることを嫌った=だから国人階層(武士団)は刃向かった」という硬直したシェーマをストレートに押し出し、問題をなで切っていく論述になっています。
これを根っこから構築し直す必要があります。
そのためには特に朝尾直弘氏の著作・論文をよく読み込み、検地政策およびその周辺の領域を構造的・過程的に分析することが不可欠です。
初期段階の検地政策とその後の検地政策とはその質を異にするので注意してください。
太閤検地自体が豊臣政権全期を通じて、量的拡大と質的発展の過程をたどりつつ実現したことも留意すべき点です。
いうまでもなく私は一素人に過ぎぬゆえ、「本能寺の変は丹波武士団による検地反対一揆である」などという視角は、"秀吉が怪しい、いや朝廷と光秀との間に・・・"といった諸説を読み慣れた一般の歴史ファンの方々には"奇をてらった妄説"に響くかもしれない。
またある人々はこの視角に対してあらかじめ"斜(はす)に構えて"対応する心の準備をするかもしれない。
けれどもこの視角は先に記したように三鬼清一郎氏を代表とする視角、つまり本能寺の変勃発を「家臣団統制における矛盾」として捉えていこうとする流れに属する。
戦国時代研究のリーダーシップをとっておられる朝尾直弘氏、三鬼清一郎氏の見解に沿っているものなのだということを一言しておきたい。
同時に社会史学の威力に目覚めて欲しいと思うのです。
『訂正・加筆 その二』(あとがき)に"四たび書こうとは思っていません"と記しましたが、この「本能寺・妙覚寺襲撃の謎(案)」は四たび目のテキストかもしれません。
これはパソコン通信・インターネットを通じて知り合った方々に、応募してくださったこと・読んでくださったことへの感謝の気持ちを込めて作成しました。
(H10.11.13)
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