>Subject: はじめまして。質問させてください。
>信長の最期は自害なのでしょうか? 殺されたのでしょうか?
雑談モードのような内容で書かせてください。
あらためて史資料を検索できる環境にはないので。
Mさんのご質問は、本気になって考えれば考えるほどややこしく、あいまいなものにしかならないと思います。
学会の(史料批判に厳しい)大御所の先生たちがどのように考えているか? に焦点をあわせると見通しがよくなると思います。
まずはじめに、大きなシナリオを設定してしまいます。次のようなものです。
「本城惣右衛門覚書」に明らかなように、明智方の兵士たちは自分たちの討つ相手が上様(信長)とは知らされていなかった。
彼らは家康を討つものとばかり思っていた。
「明智が者と見え申し候」と信長の近習の誰かが言ったかどうかは判りませんが、大きな地響き、騒擾の巻き上がる中で・・・ちょっと間があって後、信長は「俺を・・・」と直感した。
先見えのする信長は己(おのれ)の死を覚悟したと考えていいと思います。
「死のふは一定・・・」。これは信長の日ごろの心構えを映し出す歌と考えます。
"見苦しき雑兵どもに頸を・・・"。信長にとってこれ以上の辱めはない。
とっさに自決を決意し、「敵に見つかりにくい場所」がどこかを瞬時に割り出した。
それが「本能寺の墓地の後ろにある藪の中」だったと考えます。
十人程の近習・側近に導かれ、藪へ向かった。
信長は自分が自決した後の始末を近習らに指図し、そこで果てた。
信長の指図どおりに近習たちが遺骸を火葬に付している最中、阿弥陀寺の清玉上人が彼らの姿を垣間見て駆け寄ってきた。
上人は彼らとも面識があったので「愚僧にお渡しあれ」と召し連れた僧徒らに指図して、手際よく信長の遺骸を火葬にふし、本能寺の僧徒が立ち退く風情して阿弥陀寺へ信長の遺骸を持ち帰った。
以上は「信長公阿弥陀寺由緒之記録」に依拠したシナリオです。
これをたたき台にすればいいと思います。
>信長の最期は自害なのでしょうか? 殺されたのでしょうか?
上記のシナリオからすれば信長の最期は自決。
岡田正人氏もそのように推定しておられるのではないでしょうか?(「織田信長総合事典」P.418)
奥野高広氏もこの線で考えておられる(戦前の著書「織田信長」)。
網野善彦氏もこの説を紹介しておられる(「増補 無縁・公界・楽」)。
一般にこのような説は"お寺の宣伝文句ではないか?"と退けられるのが普通です。
けれどもこの場合はチョッと違うのです。というのは「変」の騒擾が収まりつつあった7月11日、山科言経は阿弥陀寺へ参り、信長の墓を拝んでいるのです(「言経卿記」)。
信憑性があるということなのです。
全体として、「信長公阿弥陀寺由緒之記録」説をたたき台にすればいいと思います。
(H12.6.3)
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