本能寺・妙覚寺襲撃の謎 目次



本能寺・妙覚寺襲撃の謎 付録3

「検地反対一揆」説の鳥瞰

「付録3」として「検地反対一揆」説を鳥瞰する気持ちでメモしてみます。
これは1993年時点までの手持ちのデータをメモしたものでしかありません。それ以降、私には何の進歩もありません。
「時代区分論(中世→近世)」とか「土地制度史」に深い関心を持っている方にはとっても面白いテーマだと思います。
専門的学識のある方が、「本能寺の変」勃発の本質を「検地反対一揆」として捉え考察を加えられるのならば、そこには内容豊な壮大なヴィジョンが生まれるだろうと思っています。
「本能寺の変は日本歴史の『オヘソ』なのだ」「本能寺の変は決して"珍事"ではなく、信長がなしてきたこと全ての、そして信長の本質の"総決算"なのだ」「日本中世と近世との間に横たわる(感性的に捉えられうる形での)分水嶺なのだ」と何十遍となく呟いてきました。

ところで、この数年来「本能寺の変」について積極的に発言され、「変」論を引っ張ってこられたのは作家の桐野作人氏です。
氏の「真説 本能寺」(学研M文庫、2001年3月)には多くのものを教えられました(特に「史料紹介」はとっても有益でした)。
また、藤田達生氏の「<中世と近世の相克>本能寺の変の群像」(雄山閣、2001年3月)にも恩恵を受けました。
そして立花京子氏の「信長権力と朝廷」(岩田書店、2000年11月)にも学びました(「日々記」天正十年分を翻刻していただいたことは有り難かった)
これら第一線で活躍しておられる三氏が提示される論点・史料評価には種々食い違いが見られるものの、「本能寺の変」を巡っての三氏の言説は大きな潮流をなすものとして認識されつつあります。
けれども、三氏に共通して、なぜ天正八年から全面的に展開された「城割・検地」の問題に言及して下さらないのか? という不満を私は強く抱くのです。
実際、「変」および「信長」「光秀」関連図書の巻末等に付される「年表」を見ても「大和の検地」は等閑視されている如くです。
<中世と近世の相克>との視角から「本能寺の変」を考察されている藤田氏ですら「巻末年表」には「大和の検地」は記載されていません。
声を大にして言いたいのですが、この「大和の検地」は決定的に重要な問題を提起するのです。
日本中世社会が近世へ向けて変質していこうとする"烽火(のろし)"なのです。
巨大な、そして恐怖を覚えるような"地響き"が体に響いてこなければ嘘なのです。
吉川弘文館発行「織田政権の研究」(1985年)に収められた松尾良隆氏の論文「天正八年の大和差出と一国破城について」(「ヒストリア」第99号、1983年)をよくよく読み込んでもらいたい。
この論文が如何に重要であるかは「岩波講座 日本通史 近世1」(1993年)に度々援用されていることから伺えることと思います。

光秀に関心をお持ちの方は「日向守光秀家中軍法」(天正九年六月二日付)という文書は御存知のことと思います。
「変」勃発の日と同じ日付けなので、もっぱらこの点に言及されますが、問題はその内容なのです。
石高を百石ごとに区切り、それぞれ負担の軍役を定める、といったことが書かれてある。
これは、大和の差出において滝川左近と惟任日向守が大和検地の目的を"知行関係を明らかにし、それによって軍役等を賦課する(九月二十六日付白土殿宛惟任日向守・滝川左近折紙)"ことにある、と述べているように、「日向守光秀家中軍法」の存在は天正九年六月二日以前に丹波において検地が施行されたことを示唆しているのです。
この文書は以下の検地施行過程の"脈略"から理解されるべきなのです。

天正八年四月九日、
石山本願寺光佐(顕如)紀伊鷺の宮へ退去する(これを区切りとして、畿内における「城割・検地」政策が全面的に展開されることになる)
同年四月、
播磨検地実施される(翌天正九年春まで)。これと平行して播磨内の諸城破却が進められる。
同年八月三日、
順慶、信長より「国中の城を破却せよ」と命ぜられ、この日(京より)帰国する
同年八月八日、
摂津・河内の諸城破却の命が下り、順慶もこれに動員され、この日河内へ向かう
同年八月十五日、
信長、大坂へ到る
同年八月十六日、
順慶、河内より大和へ帰陣。信長が大坂へ着陣したのは前日の十五日。順慶は信長に謁し、"こちらはもう良いから、明日帰国して大和の城割に取り掛かってもらう。こちらで見聞したことを十分に生かして取り掛かることが肝要であるぞ"と命ぜられたものかと思われます。
同年八月十七日、
信長より派遣された上使衆、順慶方へ越す。上使衆の監視下に、郡山一城を残し、すべての城郭破却が開始される。"大変な騒動"になる。
同年八月二十一日、
信長(在大坂)、長岡藤孝に書(八八九号文書)を与え、畿内の諸城を大略破却したことを述べる。
同年九月二十五日、
滝川一益、明智光秀の両名、上使として奈良へ来る
同年九月二十六日、
大和一国一円(寺社、本所、国衆)の差出命令が下される(書式も指示される)
同年十月二十三日、
興福寺、上使の事細かな難癖を受けながら漸くにしてこの日、上使の承認を得る。
天正九年四月、
槙尾山施福寺に差出が命ぜられるも、同寺はこれを拒否し山にたてこもる。織田政権によってなで斬りにされる。
同年六月二日、
「日向守光秀家中軍法」が作成される。
    {参考} 中村吉治氏「日本封建制再編成史」(1939年)より

    検地の遂行は決して円滑に容易にはされ得なかった。
    信長の大和検地に興福寺の記録では一国中の嘆きがあったとある様に、それは常に障害があった。
    その障害多かりしことがまたその性質の重要性をも示している。
    検地が隠田の摘発などにおいて直接百姓を困らせたということも勿論ある。
    検地の結果、増分の出来るのが普通であったことも、一つにはそれがあった故であろう。
    それに、何はなくともいきなり新しい土地調査があるとすれば、単にそれだけでも不安は大きかったに違いなかった。(中略)不満は大きいのが当たり前である。
    興福寺が嘆いたのもそれ故であったが、一般にそれは多かった筈である。
    従って不満は百姓だけではない。
    旧武士、地侍などにおいて、特にそれが強かったということが考えられる。
    だからむしろそういうものが指導し、百姓をも引き入れて、強力な反対の一揆などが度々生じているのであった。

    それが鎮圧され、あくまで強行されたところに、旧制度の破壊の意味があった。
    反対が多かっただけ重要なものであり、それを押し切ってなし得ただけに結果は大きい意味を持ち得たというわけである。

先に書名を挙げた「岩波講座 日本通史 近世1」を見ると、ここでは「検地」およびこれと密接な関係にある「城割」「兵農分離」に大きなスペースが与えられていることに気付きます。
それは、この時代を把握するための最重要の論点だからです。
これら諸論点が抉り出す"社会的激動"の実態とその真っ只中において生起した「本能寺の変」勃発が無関係でありうるのか? そこを、まさに"そこ"を自分の頭で考えていただきたいのです。

(H14.9.7)

私は当分の間、この問題に手をつけることは出来ません。
もう手をつけないかもしれません。
もし「検地反対一揆」説的視角に興味を持たれる若い方がおられたら、と期待してわずかばかりですが参考文献と史料を挙げておきます。

参考文献
(「本能寺の変」~丹波における「城割・検地」政策を考えるために)

細川文書「多紀郡大庄屋奥山家文書」
天正八年に信長の命を受けた長岡藤孝が差出を徴する方法で行ったとのこと。ただし私は未見です。御存知の方がおられましたらお教えください。このデータは下に記す嵐瑞澂氏の論文による。
「福知山市史」
<第二巻(1982年)><史料編一(1978年)>都立中央図書館請求番号:/2196/172/2、/2196/172/6
「新修 亀山市史」
<史料編 第二巻(2002年)>都立中央図書館請求番号:/2196/3283/2-2。「本文編 第二巻」は近刊予定。
神崎彰利氏 「検地」
(1983年、教育社歴史新書202)。特に『検地と一揆』の節参照。
福島克彦氏 「織豊系城郭の地域的展開<明智光秀の丹波支配と城郭>
(「中世城郭研究論集」所収。1990年、新人物往来社刊)都立中央図書館請求番号:/5214/3005/90
長谷川弘道氏 「明智光秀の近江・丹波経略」
(「明智光秀のすべて」所収。1994年、新人物往来社刊)
川副博氏 「丹波福知山御霊神社所蔵文書」
(文書二通の紹介、「歴史地理」No.531号、1953年3月)
今中寛司氏 「丹波国の太閤検地」
(「兵庫史学」No.2、1954年)国会図書館請求番号:Z8-121
嵐瑞澂氏 「丹波の太閤検地について」
(「兵庫史学」No.24、1960年)国会図書館請求番号同上。

福島克彦氏論文は上記の他に次のものがあります。併せ参照していただきたい。

福島克彦氏「丹波における織豊系城郭」
(「中世城郭研究」第2号所載、1988年。国会図書館請求番号:Z8-2808)。
福島克彦氏「職豊期における城郭・城下町の地域的展開<丹波を中心に>
(「ヒストリア」No.142所載、1994年。都立中央図書館(雑誌請求)。
福島克彦氏「織田政権期の城館構成<丹波を例として>
(「中世の城と考古学」所収、(新人物往来社、1991年12月。都立中央図書館請求番号:2140/3041/91)。

(つまづ)きの第一歩

「本能寺の変」を考察する上での「躓(つまづ)きの第一歩」は惟任日向守光秀一個人にスポットライトを当てるところから始まる。
光秀一個人と「本能寺の変」とを同一レベルでその対応を考えてしてしまうと、たちまちのうちに"諸俗説"の渦に巻き込まれてしまいます。
たとえ光秀を巡る諸説に対し"そんなことは俗説であるってこと、俺は充分わきまえているよ"と確固とした自覚を持っていたとしても必ずそうなってしまいます。
テレビ、読み物を通じて無意識層に蓄積された"諸俗説にまみれた光秀(像)"は私たちの考察上のコントロールを簡単に撥ね退けてしまうのです。
勝手に動き出してしまうのです。
この難点を避けるために、惟任日向守を"明智勢中枢部分"あるいは"丹波勢中枢部分"といった「範疇」に封じ込めてしまう。
本能寺襲撃の主体を"明智勢(丹波勢)中枢部分"と設定する。
こうしておいて「本能寺の変」の考察を始める。
そうすると諸俗説が放つ雑音が介入してくるのを防げるのです。
あくまでも"サブ・ルーチン"として考察するのがよいと思うのですが、そう簡単には転換できない。
端的に言えば、惟任日向守一個の発条によって「本能寺の変」が引き起こされた、とする発想は全面的に否定されなければならないのです。
中世の特質は"合議"であると言われることの意味を深く見据えなければならないと思います。
とすれば、惟任日向守の名義において引き起こされたとされる「本能寺の変」は彼の配下の諸武士団(特にその上層部分および地主的寺社勢力)危機感を反映した事件ではなかろうか、という見通しを得る。
そうすれば、このテキストで度々引用させていただいた一文、つまり

    信長のように配下の大名の所領支配にまで干渉する「武者道」とのあいだに、するどい矛盾を有していた。すくなくとも、かれ(光秀)の家臣団にはそうとうな抵抗があったと考えてよい。光秀が家臣に押されて決意したとすれば、かれは信長のように家臣団の変革を遂行することが出来なかったのであろう(小学館発行「日本の歴史8 天下一統(1988年)」153ページ)

との朝尾直弘氏の的確な御示唆を充分に受け止めることが出来るのではないでしょうか?



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