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資料 本能寺の変】 [史料にみる本能寺の変] 「織田信長上洛」


信長、諸将に出陣の準備を命ずる

(信長は)四、五年前より毛利に対して始めた戦争を速に終らんと欲し、これを征服するためすでに羽柴殿を派遣してゐた。(中略)毛利は山口の王で十三カ国の領主であったが、大いに窮追せられたるを見て、全力を尽し死に至るまで戦はんと決心して多数の兵を集めた。羽柴殿は二万五千人を有するにすぎなかったので、信長に援兵を送らんことを請うたが、彼自ら来ることなく、三万人を派遺せば速に毛利の領国を占領し、その首を彼に献ずることができるであらうと言った。併し信長は自ら行くことに決し、都に来り、同所より堺に赴くこととし、毛利を征服して日本六十六カ国の領主となった後、一大艦隊を編成してシナを征服し、諸国をその子達に分ち与へんと計画した。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

其翌日(廿二日)羽柴筑前守秀吉方ヨリ、飛札ヲ以テ被申上ケルハ、今度備中国ニテ、数箇所ノ敵城ヲ攻落シ、其ヨリ高松ト申無双ノ要害ヲ取巻候テ、種々工夫ヲ廻シ、川々トモヲ堰入(セキイレ)、水攻ニイタシ候処ニ、敵ノ総大将毛利右馬頭輝元評議シ、元就・隆元・我等迄相伝ノ所領ナルヲ、敵ニ奪レテハ叶マジトテ、(中略)拾万計ノ勢ヲ卒シ、高松ノ城後詰トシテ、安芸国ヨリ出張申ノ由註進セリ。信長公此旨ヲ聞召テ、其儀ナラバ急キ出馬セシメ、毛利ト合戦シ、有無ノ可決雌雄ト也。然共、諸軍ヲ催スノ間、可延引条、早々先勢計ヲ遣スベキトテ、書付ヲ以テ触ラレケルハ、池田勝三郎・同紀伊守・同三左衛門・堀久太郎・惟任日向守・長岡兵部太輔・同与市郎・同頓五郎・中川瀬兵衛・高山右近・安部仁右衛門・塩川伯耆守・同吉大夫、右十三頭ハ急キ致支度、来月朔日・二日ニ郷里ヲ立テ、備中国ヘ馳下、秀吉ガ可任指図ナリ。信長公・信忠卿ハ五、七日中ニ京都迄出陣有テ、諸軍ヲ集メ、来月八日ニ都ヲ出陣シ、中国ヘ下向可有也トゾ被書ケル。惟任ガ臣下共此触状ヲ見テ、大ニ怒テ申ケルハ、既ニ当家ハ一方ノ大将トシテ、京極・朽木ヲ始メ、宗徒ノ人々十八人組下ニ有レ之処ニ、此触状ニハ次第不同ノ端書モナク、光秀仮名(ケミヤウ)ヲハ半ニ載ラルヽ事、無法ノ儀ニ非ズヤ。剰(アマツサヘ)、秀吉ガ可任指図旨、奥書ニ記シルサルヽ事、旁(カタ/\)以テ無念ノ次第也。其上、今度徳川殿御馳走ノ品々故ナクシテ召上ラルヽ条、万(ヨロ)ヅ生涯ノ恥辱トコソ存候ヘト、泪ヲ浮(ウカ)メ申ケレバ、日向守家来共ノ鬱憤ノ様ヲ聞テ、実々(ゲニ/\)汝等ガ申通、先年日本国ヲ可平ク大将ヲ定メラルヽニ、北陸道ヲバ柴田修理亮、東山道ハ滝川左近将監、東海道ハ徳川殿、南海道ハ佐久間右衛門尉、山陽道ハ羽柴筑前守、山陰道并ニ筑紫ヲバ某(ソレガシ)ニ仰付ラル。依之、但馬国征罰ノ事度々訴訟セシカトモ、終ニ御許容無之シテ、山陽・山陰へ羽柴進発ス。如何ニ共量ハカリガタシ。其ノ上先月ヨリ以来、恨ヲ含ム儀多ケレトモ、古語ニ雖君不為君、不可臣以不為臣ト見ヘタレバ、必左様ニ恨申ベキニ非ズトテ、則触状ニ令判形、先々ヘゾ送リケル。然処ニ、青山与三ヲ上使トシテ、惟任日向守ニ出雲・石見ヲ賜フトノ儀也。光秀謹テ上意ノ趣承リシニ、青山申ケルハ、両国御拝領誠ニ以テ目出度奉存候。去ナガラ、丹波・近江ハ召上ラルヽノ由ヲ、申捨テゾ帰リケル。爰ニ於テ、光秀并家子・郎等共闇夜(アンヤ)ニ迷フ心地シケリ。其故ハ、出雲・石見ノ敵国ニ相向、軍ニ取結フ中ニ、旧領丹波・近江ヲ召上レンニ付テハ、妻子眷属少時(シバラク)モ身ヲ可置所ナシ。敵ハ毛利ノ輝元、安芸・備後・備中・周防・長門・豊前・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐以上十二箇国、先祖ヨリ持来レル大敵ナレバ、輙ク攻破リガタシ。丹波・近江ハ被取上、出雲・石見ハ難治メニ付テ、沖ニモ不出、磯ヘモ寄ザル風情ニテ、所々ニ尸(カバネ)ヲ曝サン事、口惜次第ナリ。昨日ノ触状ノ体、先日徳川殿御馳走ノ儀モ、敢ナク取放サレヌ。今日ノ趣何カニ付、鬱念不巡之存ズルナリ。佐久間右衛門尉・林佐渡守・荒木摂津守其外ノ輩、滅却セシ如ク、当家モ可亡ス御所存ノ程、鏡ニ掛テ相見へ候。前車ノ覆(クツガエス)ヲ見テ、後車ノ戒トスト云ル通リニ候ヘバ、以往(アナタ)ヨリ其色立無之以前ニ、謀叛ノ儀是非ニ思召立セ玉フベシト、忿(イカ)レル眼ニ涙ヲ{汀-丁+前(ソヽヒ)}テゾ申ケル。其者共ニハ、明智左馬助・同治右衛門・同十郎左衛門・妻木主計頭・藤田伝五・四天王但馬守・並河掃部助・村上和泉守・奥田左衛門尉・三宅藤兵衛・今峰頼母・溝尾庄兵衛・進士作左衛門、以上十三人トゾ聞ヘケル。光秀ハ黙然トシテ座セシガ、此時何レモニ向テ申ケルハ、抑、我等事、身ハ賤シヽト云トモ、源家累代ノ嫡流土岐伯耆守頼清ガ後胤トシテ、数代濃州明智ニ居住セシガ、弘治ノ比ヨリ永禄九年ノ冬迄ハ、越前ニ在(アリ)シヲ、信長頻リニ招カルヽニ付、則岐阜ニ往(ユキ)、其ヨリ武功ヲ励ミ次第ニ立身セリ。元亀二年ニハ、各ガ働キニ依テ、西近江ヲ討随へ、天正三年ニ丹波国ヲ可レ治由ニ付、彼国へ発向シ、弥(イヨ/\)何レモ粉骨ヲ尽シ、数箇年ノ間(アイタ)軍シテ、終ニ丹州ヲ手ニ入キ。織田家ニ来テ十七年ニ成ヌレトモ、強(アナガ)チ信長ノ譜代恩顧ト云ニハ非ズ。尤君恩トハ云ナガラ、唯某(ソレガシ)ガ武勇ノ鋒先ヲ以テノ故也。誠ニ昼夜安堵ニ不住シテ、今ニ至リヌ。然ルヲ、先月五月甲州ニ於テ、無利ノ儀ヲ仰立ラレ、信長直ニ拳ヲ以テ、三ツ四ツ光秀ガ面ヲ擣(ウチ)玉ヒ、又去十八日ニハ当城ニシテ、小姓ニ仰セ、無体ニ某(ソレガシ)ヲ打擲セラル。彼是前代未聞ナリ。其節憤リヲ含ムト云トモ、大行ハ不顧(カヘリミ)細勤(サイキンヲ)ト云事モアレバ、思(ヒ)鎮(シヅメ)テ退出セシナリ。殊ニ今係ル難題ヲ仰懸ラルヽニ付テハ、当家ノ滅亡ノ時節到来不及是非次第ナリ。左有(サアラ)バ、当月下旬ニハ、信長・信忠諸共ニ上洛有ベキト聞ナレバ、思知セ可申也。然ラバ、急ギ坂本・亀山ニ立越、残ル股肱の輩ニモ云談ジテ、謀ヲ廻ラスベシ。必(ス)何レモ隠密アルベシトテ、早々安土ヲ発足ノ刻、日来(ヒゴロ)数寄ノ道トテ、
 心知(ラ)ヌ 人ハ何トモ云ヘバ云ヘ 身ヲモ惜マジ 名ヲモ惜マジ
ト打詠シテ、坂本ノ城ヘゾ帰リケル。【明智軍記】

芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、今度間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、御動座なされ、中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、上意にて、堀久太郎御使として、羽柴筑前かたへ、条々仰せ遣はされ、惟任日向守、長岡与一郎、池川勝三郎、塩河吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛、先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。
五日十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、何れも/\、同事に本国へ罷り帰り候て、御陣用意候なり。【信長公記(桑田)】

信長は三万人を率ゐて羽柴殿を助け、毛利を亡ぼすことを彼(光秀)に命じた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

信長公ハ不聞給(毛利との)和睦。依可有中國出馬。先立テ被命明智日向守。筒井順慶。細川兵部太輔父子。池田勝三郎父子。中川瀬兵衛。高山右近等三万五干余騎。【豊臣記】

信長、上洛する

廿九日、丙戌、信長御上洛爲御迎、召具侍從(兼見息兼治)至山科罷出、雨降、未刻御入洛、御迎衆各可罷歸之由先ニ御案内之間、則急罷歸畢、【兼見卿記(別本)】
廿九日、丙戌、信長御上洛爲御迎、至山科罷出、數刻相待、自午刻雨降、申刻御上洛、御迎各無用之由、先へ御乱(森長定、乱丸)案内候(之カ)間、急罷歸了、【兼見卿記(正本)】

五月廿九日、信長公御上洛。
(中略)
御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り候て、御一左右次第、罷り立つべきの旨、御触れにて、今度は、御伴これなし。【信長公記(桑田)】

一日、丁亥、(中略)信長へ諸家御礼云々、予依神事不罷出、明日御礼可申入所存也、【兼見卿記(別本)】
一日、丁亥、(中略)信長へ諸家御礼、各御對面云々、予依神事明日可罷出覺悟也、【兼見卿記(正本)】

一日、丁亥、晴陰、雨、天霽、
一、前右府(織田信長、宿所本能寺)へ礼ニ罷向了、見參也、進物者被返了、參會衆者、近衞(前久)殿・同御方御所(信基)・九条(兼孝)殿・一条(内基)殿・二条(昭實)殿・聖護院(道澄)殿・鷹司(信房)殿・菊亭(今出川晴季)・{往-主+(匕*匕)、(徳)}大寺(公維)・飛鳥井(雅敎)・庭田(重保)・四辻(公遠)・甘露寺(經元)・西園寺亞相(實益)・三条西(公國)・久我(季通)・高倉(永相)・水無瀬(兼成)・持明院(基孝)・予・庭田黄門(重通)・勸修寺黄門(晴豊)・正親町(季秀)・中山(親綱)・烏丸(光宣)・廣橋(兼勝)・坊城(東坊城盛長)・五辻(爲仲)・竹内(長治)・花山院(家雅)・万里小路(充房)・冷泉(爲滿)・西洞院(時通)・四条(隆昌)・中山中將(慶親)・陰陽頭(土御門久脩)・六条(有親)・飛鳥井羽林(雅繼)・中御門(宣光)・唐橋(在通){犬-大+(寸-丶+(冫-丶))、(等)} 也、其外僧中・地下少々有之、不及記-、數刻御雜談、茶子・茶有之、大慶々々、【言経卿記一】

信長公諸将ニ下知シ玉ヒケルハ、中国へ向フニ付、各用意ノタメ御暇下サルヽノ間、来ル六月五日・六日比ニ京都へ令参上ベシトゾ仰出サレケル。偖、御自身ハ、湯浅甚介・森蘭丸・金森義入斎ナド近習ノ人々二百騎計ヲ召具セラレ、上洛御坐テ、四条西洞院本能寺ニ著御(チヤクギヨ)セラル。城介殿ハ、斉藤新五・毛利新介・菅谷(スゲノヤ)九右衛門・福富平左衛門・団平八ヲ先トシテ、三百余騎ヲ引卒シ、岐阜ヨリ上京有テ、二条ノ城郭へ入玉フ。信忠卿ノ御舎弟織田源三郎勝長ハ、津田又十郎・同勘七以下ノ一族達ヲ催シ、尾州犬山ノ居城ヲ立テ、同ク京著シ、妙覚寺ニ寄宿セラレ、諸将ノ参向ヲゾ待レケル。【明智軍記】

五月廿九日、信長公御父子近臣僅の御人数にて御上洛、本能寺に御座候【綿考輯録】




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