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資料 本能寺の変】 [史料にみる本能寺の変] 「明智光秀、亀山から京都へ」


光秀、坂本へ帰国

五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。次の日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣、一宿参籠致し、惟任日向守心持御座候や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度三度まで籤を取りたる由、申候。廿八日、西坊にて連歌興行、【信長公記(桑田)】

惟任日向守光秀ハ、同廿七日、三千余騎ヲ帥(ヒキイ)テ坂本ヲ発シ、白河越ニ掛リ、都ヘハ不入シテ、西ノ京ヲ過ギ、嵯峨ノ釈迦堂ニ至リ、爰ニテ家来共へ申サレケルハ、我聊カ寄願キグハンノ事有ニヨリ、愛宕山ニ詣テ通夜セシメ、明日丹州へ可レ行也。汝等ハ是ヨリ唐櫃越ヲ歴ヘ、又ハ大江山(オオエノヤマ)ニ懸リ、亀山へ参著スベシ。前日ヨリ彼道筋ノ里人ニ金銀ヲ与へ、竹木ヲ払ヒ、路次ヲ広ク作ラセタルゾ。其分相心得、道狭キ所アラバ、能様ニ可沙汰(ス)トゾ下知シケル。【明智軍記】

光秀の決意

(信長は)三河の国王(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
これらの催し事の準傭について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上り、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたと言うことである。だが、それは秘かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したかも知れぬし、あるいは[おそらくこの方がより確実だと思われるが]、その過度の利欲と野心が募りに募り、ついにはそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかもわからない。【回想の織田信長】

火曜日(天正10年5月29日)軍隊が城内に集った時、彼は四人の部将を招いて、密に信長とその子を殺して天下の主とならんと決心したことを告げたところ、彼等は皆驚いたが、彼がすでに決心した以上、これを援けてその目的を達するほかはないと答へた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

水曜日(天正10年6月1日)の夜、同城に軍勢が集結していた時、彼は最も信頼していた腹心の部下の中から四名の指揮官を呼び、彼らに対し短く事情を説明した。とりわけ、彼は自らを蹶起させるやむを得ぬ事情と有力な理由があったので、信長とその長子を誤つことなく殺害し、自らが天下の主になる決意であることを言い渡した。そして、そのために最良の時と、この難渋にして困難な仕事に願ってもない好機が到来していることを明らかにした。すなわち、信長は兵力を伴わずに都に滞在しており、かような(謀叛に備えるような)ことには遠く思い及ばぬ状況にあり、兵力を有する主将たちは毛利との戦争に出動し、更に彼の三男は一万三千、ないし一万四千の兵を率いて四国と称する四カ国を征服するために出発している。かかる幸運に際しては、遅延だけが(考えられる)何らかの心配の種となりうるであろう。
(中略)
一同は呆然自失したようになり、一方、この企画の重大さと危険の切迫を知り、他面、話が終ると、彼に思い留まらせることも、まさにまた、彼に従うのを拒否することももはや不可能であるのを見、感じている焦慮の色をありありと浮かぺ、返答に先立って、互いに顔を見合わせるばかりであったが、そこは果敢で勇気のある日本人のことなので、すでに彼がこの企てを決行する意志をあれほどまで固めているからには、それに従うほかはなく、全員挙げて彼への忠誠を示し生命を棒げる覚悟である、と答えた。【回想の織田信長】

彼は信長ならびに世子(信忠)が共に都に在り、兵を多く随へてゐないのを見て、これを殺す好機会と考へ、その計画を実行せんと決心した。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

明智軍、亀山を発向する

六月朔日、夜に入り、丹波亀山にて、惟任日向守、逆心を企て、明智左馬助(秀満)、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐(利三)、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主(しゆ)となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草(みくさ)越えを仕り候ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老(おい)の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。【信長公記(桑田)】

山さきのかたへとこゝろざし候へバ、おもひのほか、京へと申し候。我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、いゑやすさまとばかり存候。ほんのふ寺といふところもしり不申候。【本城惣右衛門覚書】

従軍の兵士たちは、毛利との戦いに赴くのに通らねぱならぬ道でないことに驚いたが、抜け目のない彼(光秀)は、その時まで何ぴとにも自らの決心を打ち明けておらず、かような無謀な企てが彼にあることを考える者は一人としていなかった。【回想の織田信長】

兵士たちはかような動きが一体何のためであるか訝かり始め、おそらく明智は信長の命に基づき、その義弟である三河の国王(家康)を殺すつもりであろうと考えた。【回想の織田信長】

彼(光秀)は実行方法につき命令を発し、何人も裏切ることなきやうその面前において武装せしめた。而して夜半出発し、都に着いた時すでに明方であった。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

天正十午ノ年六月二日。光秀公備中出陣之可有御暇乞とて。六月朔日ノ夜半計に。丹波之龜山迄被成御立候。【細川忠興軍功記】

六月朔日、中国へ発向スル勢揃ト号シテ、申ノ刻ニ及テ、日向守ハ、能条畑(ノウデウハタ)ニ打出テ、水色ノ幡(ハタ)ヲ立、軍勢ノ手組(テクミ)有テ、三手ニ分ツ。一手ハ、明智左馬助・四王天但馬守・村上和泉守・妻木主計・三宅式部、一手ハ、明智治右衛門・藤田伝五・並河掃部助・伊勢与三郎・松田太郎左衛門、自身ハ、明智十郎左衛門・荒木山城守・諏訪飛騨守・奥田宮内・御牧三左衛門ヲ先トシテ、酉ノ下刻バカリ、保津ノ宿ヨリ山中ニ懸リ、水尾ノ陵(ミサヾキ)ヲ徐(ヨソ)ニナシ、内々作ラセ置タル尾伝(オヅタヒ)ノ道ヲ凌(シノ)ギ、嵯峨野ノ辺ニ打出テ、衣笠山ノ麓ナル地蔵院迄著陣ス。左馬助ハ、本道ヲ歴ヘテ大江坂ヲ過、桂ノ里ニ打越ル。治右衛門ハ、王子村ヨリ唐櫃越ノ嶮難ヲヘテ、松尾ノ山田村ヲ通リ、本陣近クゾ寄合ケル。諸軍勢此形勢(アリサマ)ヲ見テ、中国ヘノ出陣ハ播磨路ニ可趣処ニ、只今ノ上洛ハ不審多キ事也トテ、武頭(モノカシラ)等ニ向ヒ其様ヲ尋シカバ、士大将是ヲ聞、謀叛ノ儀ヲ隠密シテ偽云ケルハ、織田殿ノ仰ニハ路次ノ程廻リナレトモ、当手(タウテ)武者押(ヲシ)ノ次第、京都ニ於テ御見物可有ニ付、如此ト聞及処ナリト答ケレバ、諸人実(ゲニ)モト思ツヽ、何心モナク、終夜(ヨモスカラ)駒ヲ早メテ、都近クゾ上リケル。爰ニテ光秀諸勢ニ触ラレケルハ、各兵粮ヲ仕ヒ武具ヲ固メヨ。敵ハ四条本能寺・二条城ニアリ。可攻討ト下知シケレバ、偖ハ野心ゾト心得テ、何レモ小荷駄ヲ招キ、支度ノ体不穏便(ナラ)ト云トモ、曽テ外ヘハ知ザリケル。【明智軍記】

明智軍、京に向かう

六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。爰(ここ)を左へ下り、桂川を打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。【信長公記(桑田)】

都に入るに先立ち、都に入って信長に己(光秀)の率ゐた軍兵の優秀なることを示す必要上、十分の武装なすことを全軍に命じた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

銃は皆火縄に点火して引金に挟むことを命じ、鎗も整へさせた。部下はこれが何のためであるか疑ひ、或は信長の命により明智が信長の義弟三河の王(家康)を殺すのであらうと考へた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

次て御人數可懸御目とて。堅木原に御人數立申候か。明智左馬之助光遠人數。京へ俄に出し申候。殘人數も押寄。無程本能寺に攻懸り候。【細川忠興軍功記】




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