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資料 本能寺の変】 [史料にみる本能寺の変] 「京・大坂・堺・徳川家康」


五月廿一日、家康公御上洛。此の度、京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨、上意にて、御案内者として、長谷川竹、相添へられ、織田七兵衛信澄・惟住五郎左衛門両人は、大坂にて家康公の御振舞申しつけ候へと、仰せつけられ、両人大坂へ参着。【信長公記(桑田)】

廿一日、戊寅、天晴、
三位中將(織田信忠)殿・參川{往-主+(匕*匕)、(徳)}川(家康){犬-大+(寸-丶+(冫-丶))、(等)} 上洛了、【言経卿記一】

(五月)廿一日 城介殿も甲州より御歸城。今日徳川召供アリテ、京都へ御入洛云々。五三日洛中見物にて、堺■■(ノ津)見物徳川殿可有御越云々。堺ノ茶湯者共ニ被仰付、徳川殿事いかやうにも振舞馳走可仕云々。友感法印ハ兼日ニ下津アリテ、徳川殿まかなひ方ノ儀被申付云々。【宇野主水日記】

五月廿七八日比歟(家康)御上洛アリ、於京都御茶湯御遊覧等可在之云々。【宇野主水日記】

大坂

天正十年春信長樣御代。大坂之御城御本丸は。丹羽五郎左衛門長秀殿御預り。千貫矢倉は。織田七兵衛に。御預け被成被召置候由之事。【細川忠興軍功記】

この時三七殿と称する信長の第三子(信孝)は、前に述べたとほり堺に在り、その父が彼に与へた四カ国を攻略するため、兵を率ゐて行く準備をしてゐたが、その父と兄との死を聞いて、直に引返して復讐する準備を始めた。而してまづ信長の長兄(弟信行)の一子七兵衛殿Xichinbeoidono(信澄)といふ彼の従兄弟を殺して安全を計らんと考へた。
(中略)この青年(信澄)は信長に父を殺され、また明智の一女と結婚してゐたので、何人も彼が岳父(光秀)と共に信長の死を計ったであらうと考へた。この青年は当時信長の命によって、丹羽五郎左衛門といふ他の貴族と共に堺より三レグワの所に在る大坂の城を守ってゐた。
(中略)
彼(信孝)の従兄弟(信澄)は彼を入城せしめぬやう大いに努力し、その兵が彼と共に入城することを許さなかったので、兵は町に留めた。彼は同所に二日ゐた間にに五郎左衛門(丹羽長秀)と協議し、大いに警戒して塔の最高所に留りかつて室外に出なかったその従兄弟を殺す手段を定めた。彼を殺すために用ひた策略は、城の第二の司令官である五郎左衛門が三七殿を船まで送り、偽って三七殿の兵と五郎左衛門の兵との間に喧嘩を起し、従兄弟が殺さるることを惧れて城を出でず、その兵もまた出なかったので、五郎左衛門は負けたる真似をして城に逃込み、三七殿の兵はこれを追って入城した後、一団となって従兄弟の兵の多数を殺した。従兄弟は塔内にゐたが、或は自殺したと言ひ、或は少年の武士等に殺されたとも言はれてゐる。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

然は七兵衞殿色か立。御本丸方かこひ被申體に相見へ申候に付。五郎左衞門殿御本丸より。千貫矢倉へ鐵炮。稠敷打掛被申候。下々わきこほれ申候を。三七樣御手にて數多御打取被成候故。無程七兵衞殿も。切腹被成候事。【細川忠興軍功記】

二日早天より、信長ノ宿所本能寺へ、惟任日向守取懸、信長ヲ討果了。城介殿ハ、二條ノ下御所ヘトリコモラレ候ヲ惟日人數御寄相戰、城介殿ヲモ討果云々。
(中略)
如此アリテ、惟任日向守達存分訖。其節、三七郎殿、惟住五郎左大坂ニ在城アリテ、七兵衞殿ヲ於大坂生害サセ了。【宇野主水日記】

六月五日、於大坂城中七兵衛殿しやうかひ、三七殿・五郎左衛門兩人之爲御覺悟之儀也、即、首ヲ堺之北之ハシニカケラレ候、【宗及茶湯日記他會記】

大坂ニハ神戸三七信孝・丹羽五郎左衛門・蜂屋出羽守以下会合シテ申サレシハ、近所尼个崎ノ城主織田七兵衛信澄ハ、則三七殿ノ従弟ナレトモ、敵味方ノ儀未分明(ナラ)。但シ、信澄ノ父武蔵守信行ヲ、先年信長公無故シテ殺害セラル。其時分、信澄ハ幼稚ナレバ何ノ弁(ワキマ)ヘモナカリシニ、成仁(セイジン)ニ随テ、伯父ナガラモ信長ハ父ノ仇ナリト、思籠給由風聞アリ。其上、明智日向守ガ聟ナレバ、旁(カタ/\)以テ心底如何共量(ハカリ)ガタク候ヘバ、神戸殿ヨリ御使ヲ立ラレ、此地へ呼参セラレ、実否ヲ糺サルヘシト各評議イタシケリ。因(リ)茲(コレ)、使者尼个崎ニ至ケレバ、七兵衛尉武運ヤ尽タリケン。何ノ思案モナク、小勢ニテ大坂へ参ラレケル処ニ、信孝ノ家臣峰竹右衛門・山路段左衛門・上田主水出向ヒ、会釈スル体ニ持(チ)成(ナシ)、中ノ間迄賞(シヤウ)ジ入、敢ナク七兵衛ヲ討留タリ。信澄モ最期ヨク脇指ヲ抜、峰竹・山路両人ノ者共ニ、手ヲ負セラレケルトカヤ。其時家来三十余人、主君ノ討レ玉ヒケル声ヲ聞テ、座敷ノ上へ走上リ、面々ニ相働キ、各討死ヲゾ遂ニケル。【明智軍記】

大坂ニハ三七信孝。四國赴カンタメ堺ニ有。丹羽五郎左衛門長秀。信孝ヲ大坂へ招入。織田七兵衛信澄[光秀聟、有大坂]ヲ殺シ。長秀。池田信輝ト相議光秀ヲ撃ト秀吉へ通。【佐久間軍記】

信澄カ與力朽木河内吉武次左衛門夜更。來丹羽長秀宅。兩人ハ依所領。假リニ屬信澄者也。依信長公ノ不忘芳恩。告信澄逆心。明曉信孝長秀攝州出勢ノ時。信澄發兵。使長柄川不殘可討取謀之云々。長秀感之。相議信孝。未明ニ攻入千貫櫓。微勢ニシテ剩被越先難防自害ス。【豊臣記】

徳川殿堺ヘ御下向ニ付、爲御見廻參上、御服等玉ハリ候、
来月三日、於私宅御茶差上ベクノ由申置候也、【今井宗久茶湯日記書抜(五月廿九日条)】

同五月廿九日ニ、徳川殿堺へ被成御下津(堺へ行く)候、庄中ニ振舞之儀、從宮法被仰付候而、請取/\いたし(次から次と順番をうけて)候而仕事ニ候、【宗及茶湯日記他會記】

(五月)廿九日 徳川堺見物トシテ入津。穴山同前。其晩ハ、宮内法印にておほ(ちカ)つきの振舞アリ。【宇野主水日記】

六月一日 朝、宗久にて茶湯朝會。晝、宗牛(天王寺屋宗及)にて同斷。晩ハ宮内法印にて茶湯。其後幸若ニ舞ヲまはせ候(られカ)樣酒宴有之。徳川殿に、案内者トシテ城介殿よりハ杉原(家次)殿。上樣よりハお竹(長谷川秀一)ヲそへられ訖。彼兩人も座敷へ被出云々。堺南北ノ寺庵ノ(ニカ)寄宿。【宇野主水日記】

同六月一日晝 徳川殿 穴山 長谷川御竹殿 【宗及茶湯日記自會記】

今朝、於京都 上樣惟日カ爲ニ御生害の由、友閑老ヨリ申來候、【今井宗久茶湯日記書抜(六月二日夕条)】

家康モ二日ニ從堺被歸候、我等も可令出京と存、路次迄上り申候、天王寺邊ニ而承候、宮法モ從途中被歸候、【宗及茶湯日記他會記(六月二日条)】

三七殿が報道を得たのは未だ(四国征討のための)船に乗らぬ時であって、二時間後には出発して明智と戦はんと欲した。然るにその兵は各地から集合した者であった故、変事を聞いて大部分は彼を棄てて去った。彼は望を果すことの不可能なことを見て、後の従兄弟七兵衛殿(信澄)のゐた大坂に赴いた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

此時。家康公。泉州堺ニ御座。亂ノ發ヲ聞召。御上洛有テ光秀ヲ撃ト被仰ケレトモ。御勢不足ニヨリ。後戰ヲ期。江州信樂ヲヘテ勢州ニ出御。爰ニ柴田源六勝之。甲州以後安土ノケイエイニ居。信長公御事ヲ聞馳登。道ニヲイテ奉參會。勢州白子マテ供奉ス。【佐久間軍記】

徳川家康、堺を出る

二日朝徳川殿上洛。火急ニ上洛之儀候、上樣安土より廿九被ニ御京上之由アリテ、それにつき不□(イ本ふた/\)と上洛由候也。これは信長御生害ヲ知テ、計畧ヲ云テ上洛也。【宇野主水日記】

徳川家康公、穴山梅雪、長谷川竹、和泉の堺にて、信長公御父子御生害の由承り、取る物も取り敢へず、宇治田原越えにて、退かれ候ところ、一揆どもさし合ひ、穴山梅雪生害なり。徳川公、長谷川竹、桑名より舟にめされ、熱田湊へ船着なり。【信長公記(桑田)】

於京都、上樣(信長)を討果申由有其聞。そのまゝ家康も歸國トテ堺ヨリ被出了。【宇野主水日記】

三河の王(徳川家康)と穴山殿Anayamadono(梅雪)と称する人はこの報に接し、即日急にその国に行くため引返した。三河の王は多数の兵と賄賂とすべき黄金をもってゐたため、困難はあったが通行ができて国へ帰った。穴山殿は少しく遅れ、兵も少かったため、途中で掠奪に遭ひ、財物を奪はれまたその兵を殺され、非常なる困難を経て逃れた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

三日、ふり初尾安部三郎殿より越候、己丑、雨降、京都酒左衞門尉所より、家康御下候者、西國ヘ御陣可有之由申來候、さし物諸國大なるはたやミ候て、しない成候間、其分申來候、酉刻ニ、京都にて上樣ニ明知日向守、小田七兵衞別心にて、御生かい候由、大野より申來候、
四日、此方御人數、雑兵共二百餘うたせ候、庚寅、信長御父子之儀秘定候由、岡崎緒川より明知別心也、申來候、家康者境ニ御座候由候、岡崎江越候、家康いか、伊勢地を御のき候て、大濱へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、穴山者腹切候、ミちにて七兵衞殿別心ハセツ也、【家忠日記】

明智光秀對信長公逆心之節。權現樣(徳川家康)ニハ穴山梅雪御同道ニテ。攝津國堺ノ浦ニ被成御座候處ニ。京都ノ樣子御聞被遊。取物モ取敢ズ。境ヨリ直ニ大和路江御退被遊候。大和ニハ筒井殿光秀方被致ト御聞被遊。御氣遣ニ思召。先大和ノ國ト河内ノ境。竹ノ内峠ト申處ヨリ。布施左京方へ御使アリ。此邊ノ案内御頼可被遊由也。布施申上ルハ。唯今ノ折柄ニ候間。京郡へ聞へ如何奉存候ヘトモ。案内者進上仕候トテ。家老吉川主馬之助ト云者ヲ。竹内峠マテ指遣ス。則此者ヲ被召連。其道筋ヲ直ニ東ノ方へ。御先ハ穴山殿都合■。三百計ニテ御通被遊候處ニ。竹内峠ヨリニ里半計東ニ。屋木ト申處御座候。其東ノ町ハズレニ。天神山ト申小キ山御座候カ。其山隠ヨリ石原田ト申候大和中ノ惡黨者。五十人計罷出。時ノ聲ヲアゲ鐵炮ヲ五六挺打懸申候。梅雪ハ不及申。權現樣ニモ二三町御引退被遊候所ニ。右ノ主馬之助眞先ニ進テ。惡黨トモヲ追拂候故。其所ヲハ無事ニ御通被遊候。(中略)亦者カマノ口ト申所御通被遊候カ。其處ノ出家ヲ御頼被遊候トモ申候。夫ヨリ山傳ヒニ伊賀路へ御越被遊。漸漸參河へ御入遊サレ候由申候。【大和記】

鷺森

三日五時分、京都之儀、堺より申來。追々方々より注進有之。其趣者、二日早天より、信長ノ宿所本能寺へ、惟任日向守取懸、信長ヲ討果了。城介(信忠)殿ハ、二條ノ下御所ヘトリコモラレ候ヲ惟日人數御寄相戰、城介殿ヲモ討果云々。【宇野主水日記】




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