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資料 本能寺の変】 [史料にみる本能寺の変] 「明智光秀の十三日間」


変直後の京

六月二日、辰の刻、信長公御父子、御一門、歴/\討ち果たし、明智日向申す様に、落人あるべく候間、家/\を{打-丁+八(捜)}せと、申しつけ、諸卒洛中の町屋(チヤウヲク)に打ち入りて、落人を{打-丁+八}事、目も当てられず、都の騒動、斜ならず。【信長公記(桑田)】

明智の兵は街々の家を探し、信長の家臣、貴族及び殿達を発見し、その首を斬ってこれを差出した。首は明智の前に山をなし、死体は市街に遺棄された。都の住民は事の結末がいかになるか心配し、明智が家に匿れてゐた者を殺さんとして都に火を放つであらうと考へた。我等カザにゐた者が一層惧れたところは、明智が悪魔及び偶像の友であり、我等と親しからず、デウスの教を嫌ってゐたのみならず、我等は信長の庇護を受けた者である故、火をカザに放たせ、その部下が聖堂の物を掠奪するであらうことであったが、町智は都の街々に布告を発し、市を焼くことはない故、安堵し、彼が成功したことを喜ぶべく、もし兵士にして害を加ふるものがあれば、これを殺すべしと言った。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

明智は、都のすべての街路に布告し、人々に対し、市街を焼くようなことはせぬから、何も心配することはない。むしろ、自分の業が大成功を収めたので、ともに歓喜してくれるようにと呼びかけた。そしてもしも兵士の中に、市民に対して暴行を加えたり不正を働く者があれば、ただちに殺害するようにと命じたので、以上の(掠奪・放火に対する)恐怖心からようやく元気を挽回するを得た。【回想の織田信長】

三日、(中略)京都酒左衞門尉所より、家康御下候者、西國ヘ御陣可有之由申來候、さし物諸國大なるはたやミ候て、しない成候間、其分申來候、酉刻ニ、京都にて上樣ニ明知日向守、小田七兵衞別心にて、御生かい候由、大野より申來候、【家忠日記】

光秀、京を出る

悉打果、未刻大津通下向、予、粟田口邊令乘馬罷出、惟日對面、在所之儀萬端頼入之由申畢、【兼見卿記(別本二日条)】
事終而惟日大津通下向也、山岡(景隆、近江勢多城主)館放火云々、【兼見卿記(正本二日条)】

京より直ちに勢田へ打ち越し、山岡美作・山岡対馬兄弟、人質出だし、明智と同心仕り候へと、申し候のところ、信長公御厚恩浅からず、忝きの間、中々同心申すまじきの由候て、勢田の橘を焼き落し、山岡兄弟居城に火を懸け、山中へ引き退き候。爰にて手を失ひ、勢田の橋つめに足がゝりを拵へ、人数入れおき、明智日向守、坂本へ打ち帰り候。【信長公記(桑田)】

ことを成し終って、明智は兵を率ゐて朝の八、九時頃都を出で、当地より四レグワの所に在り、坂本Sacamotoと称する彼の城に赴いた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

光秀公より沼田權佐御使に被遣。忠興樣御人數被召連。急き御上り被成候樣にと。被仰進侯。御返事。此度は助被歸候。重て參候はは御誅伐可被成候迄。承届歸申候事。【細川忠興軍功記】

四日、庚寅(×辰)、
洛中騒動不斜、【言経卿記一】

光秀、安土城に入る

都より安土山までは十四レグワであった故、この悲しい報知は同日(二日)昼の十二時頃同地に達した。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

信長がしばらく前に作らせたばかりの、日本随一と言われる瀬田の橋と称する美しい橋があり、その下をかの二十五レーグアの湖水(琵琶湖の水)が奔流しており、橋際に監視だけを使命とする指揮官と兵士がいる砦があったが、彼(指揮官)は、信長の訃報に接すると、明智の軍勢があまり迅速に、安土に向かって通過できぬように、異常な注意深さをもってただちに橋梁を切断せしめたからである。そのために、次の土曜日まで通行できなかったが、明智の優秀な技能と配慮により、ただちに修理復旧された。【回想の織田信長】

五日、辛卯、日向守安土へ入城云々、日野蒲生(賢秀)在城、無異儀相渡城之由説也、【兼見卿記(別本)】
五日、辛卯、日向守入城安土云々、日野蒲生(賢秀)在城、不及異儀相渡云々、【兼見卿記(正本)】

土曜日に明智は安土山に着いたが、諸人が逃亡してゐたため少しの抵抗もなく、信長の宮殿と城を占領し、城の最も高い所に登って、信長が金銀および各種貴重品を満したと言はれる蔵を開いた。ここには日本中のよいものが皆集めてあったが、これを十分にその部下に分った、信長が十五年乃至二十年の大なる骨折と戦争によって得たものを、二、三日の間に貴族達には身分に応じて分配し、低い者には己の意に従って黄金を分ち与へた。高貴な人達には各々金の一両ychirios一千すなわち七千クルサドを与へた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

都に禅宗すなはち現世の後には何者もなしといふ宗派の主要な僧院が五カ所あり、これを五山Gosamと称したが、この僧院に各々七千クルサドを贈って、信長のために葬儀を行はせた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

信用できる権威ある人々が我々司祭に語ったところによると、武将たちの中には金の棒で七千クルザードを与えられた者も幾人かいたと言われる。なぜなら、すべてこのように正確に、配分がすでに取り決められていたからである。(なお)他の者は三、四千クルザードを(支給し)、日本全土の国王である内裏には、後に好意を得ようと、二万クルザード以上を贈呈した。五山と称せられる五つの重立った寺院があるが、(その)おのおのに対しては、信長ならびにその長男の葬儀と供養を営ましめるため数千クルザードを贈った。(中略)幾人もの貴人や貧者にそれらを配布し、更にただその(財産の)臭だけをかぎつけて同所へ急ぎ集まって来た未知の人々にも二百ないし三百クルザードを与えていた。【回想の織田信長】

光秀、畿内の平定に心を砕く

三日、己丑、雨降、日向守至江州相働云々、【兼見卿記(別本・正本)】

四日、庚寅、江州悉属日向守云々、【兼見卿記(別本)】
四日、庚寅、江州悉属日向守、令一反(變カ)云々、【兼見卿記(正本)】

六日、壬辰、自勸修寺黄門(晴豊)書状到來云、御用之儀在(有)之、早々可祗候之旨仰也、即向勸黄門、令同道祗候(誠仁)親王御方、御對面、直仰云、日向守へ爲御使罷下、京都之義無別義之樣堅可申付之旨仰也、仰畏、明日即可致發足、段(緞)子一卷可被遣之、即請取、退出仕了、【兼見卿記(別本)】
六日、壬辰、自勸黄門(晴豊)書状到來、御用之間早々可祗候之由申來、即刻祗候了、親王御方御對面、直仰曰、日向守へ爲御使可被下之旨仰也、畏之由申入、明日可致發足之旨申入、段(緞)子一卷被遣之、請取退出了、自御方御所(近衞信基)者無御音信之儀、【兼見卿記(正本)】

七日、癸巳、至江州下向、早々發足、
申下刻下着安土、佐竹出羽守小性新八、爲案内者、召具新八令登城、跡ヨリ予登城、門外ニ暫相待、以喜介(鈴鹿)罷下之由日向守へ案内、次入城中、向州對面、御使之旨、卷物等相渡之、忝之旨請取之、予持參大房フサ之鞦一懸遣之、今度謀叛之存分雜談也、蒲生未罷出云々、
令下山城、町屋一循、錯乱之間不弁之爲躰也、【兼見卿記(別本)】
七日、癸巳、至江州安土發足、喜介(鈴鹿)・小十郎・与一・弓源三郎・弓金十郎・中間与左衞門・小五郎・孫六・与三郎、人夫二人、申下刻下着安土、召具佐竹羽州案内者一人、新八、以此使者申案内登城、門外ニ暫相待、次入城申、日向守面會、御使之旨申渡、一卷同前渡之、予持參大房鞦遣之、次退城、一宿町屋、不弁之体迷惑了、當國悉皈附、日野蒲生一人、未出頭云(々脱力)、【兼見卿記(正本)】

八日、甲午、早天爲上洛發足畢、日向守上洛、諸勢至路次罷出訖、明日至攝州手遣云々、先勢山科・大津陣取也、午下刻在所(吉田郷)へ罷上令休息、令祗候委細申入畢、御方御所(誠仁親王)樣御對面、直申入畢、【兼見卿記(別本)】
八日、甲午、早天發足安土、今日日向守上洛、諸勢悉罷上、 明日至攝州手遣云々、先勢山科・大津陣取也、予午下刻□(皈カ)宅、令体(休)息、參禁中、御返事申入了、【兼見卿記(正本)】

九日、乙未、早々日向守折紙到來云、唯今此方へ可來之申、以自筆申來了、飛脚直令出京之間、不及返事、未刻上洛、至白川予罷出、公家衆・攝家・清花、悉爲迎御出、予此由向州ニ云、此砌太無用之由、早々先へ罷川可返申之由云々、即各へ云、先至在所、公家衆來也、次向州予宅ニ來、先度禁裏御使早々忝存、重而可致祗候、只今銀子五百枚、兩御所(禁裏・誠仁親王)へ進上之、予相心得可申入之由云、五百枚進上之、以折紙請取之訖、此次五山へ百枚ツヽ遣之、予ニ五十枚、此内廿枚被借用、大徳寺へ百枚遣之、不寄存知仕合也、
於小座敷暫逗留、方々注進、手遣之事被申付也、次進夕食、紹巴(里村)・昌叱(里村)・心前(里村)・予相伴、食後至下鳥羽出陣、路次へ送出申礼畢、及晩進上之銀子五百枚持セ罷出、先向勸黄門、即令同道祗候、長橋御局(高倉量子、實父薄以諸)披露也、御方御所御對面、委細申入訖、被成奉書之間、直下鳥羽之陣所へ罷向、銀子之御礼、奉書ヲ向州へ見之、忝之旨相心得可申入也、入夜皈宅、【兼見卿記(別本)】
九日、乙未、早々自江州折帋到來云、唯今此方へ可來之由申了、不及返事、飛脚直出京、即予爲迎罷出白川、數刻相待、未刻上洛、直同道、公家衆・攝家・清華、上下京不残爲迎至白川・神樂岡邊罷出也、向州(惟任光秀)云、今度上洛、諸家・地下人礼之義(儀)堅停止之由被申、於路次對面勿論、於此方無對面之義也、次至私宅、向州云、一昨日自禁裏御使忝、爲御礼上洛也、随而銀子五百枚進上之由、以折帋予ニ相渡之、即可持參候(之カ)由申訖、次五山之寺へ百枚宛各遣之、大徳寺へ百枚、予五十枚、爲當社之御修理賜之、五山之内依不足、賜予五十枚之内廿枚借用之、次於小座敷羞小漬、相伴紹巴(里村)・昌叱(里村)・心前(里村)也、食以後至下鳥羽出陣、次進上之銀子五百枚令持參罷出、以勸黄門(晴豊)申入候(之カ)処、親王御方御對面、委細申入訖、銀子長橋御局(高倉量子、實父薄以緒)披露了、【兼見卿記(正本)】

十日、丙申、(中略)日向守至攝州相働云々、
西天王祭礼也、乱中之間無神幸之儀、餝神輿、備神供、【兼見卿記(別本)】
十日、丙申、(中略)日向守至河州表相動云々、西天王祭礼也、依乱中無神幸之儀、餝神輿、安鎭假殿了、【兼見卿記(正本)】

十一日、丁酉、日向守至本陣下鳥羽歸陣、淀之城普請云々、【兼見卿記(別本)】
十一日、丁酉、向州至本陣下鳥羽皈陣、淀之城普請云々、【兼見卿記(正本)】

明智が信長を殺した時には、都に接した津の国の殿達ならびに重立った貴族は毛利との戦争に赴いてゐたのに、明智が盲目であって直に同日の諸城を占領させなかったことは、その滅亡の因となったのである。(中略)明智は右近殿が帰城の上、必ず己の味方となるものと考へ、人をジュストのもとに遺はして、少しも心配せず依然城を守るべしと伝へた。高槻の家臣達は偽って時宜に適した返答をなし、これによって明智は安心し、人質としてその子を求めず、また我等を捕へることもしなかった。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

信長の義兄弟の守護した勝竜寺Xorenziといふ重要な城を取った。同所で彼の味方に投ずる者を待ち、また羽柴殿がいかなる処置をなすか見んとしてゐた。【イエズス会日本年報(1582年追加)】

明智は都から一レーグアの鳥羽と称する地に布陣し、信長の家臣が城主であった勝龍寺と称する、都から三レーグア離れた非常に重要な一城を占拠していた。彼はその辺りにいて、自分の許に投降して来る者たちを待機するとともに、羽柴の出方を見極めようとした。(中略)そして津の国の者たちが、予期したように、自分に投降して来ないのを見ると、彼は若干の城を包囲することを決意して、高槻に接近して行った。【回想の織田信長】

光秀公より沼田權佐御使に被遣。忠興樣御人數被召連。急き御上り被成候樣にと。被仰進侯。御返事。此度は助被歸候。重て參候はは御誅伐可被成候迄。承届歸申候事。【細川忠興軍功記】

光秀公は三七樣。五郎左衞門殿。御打果可被成候間。筒井順慶に人數出し候へは。洞か峠にて御待合可被成と。被仰遣候へは。則人數出し可申と申に付。中一日二夜。洞か峠に野陣被成。筒井御待被成候事。【細川忠興軍功記】

對信長公ニ明智光秀逆心ノ刻。光秀筒井へ使ヲ被指越ハ。信長公ニ怨甚依有之。本能寺へ押寄セ御腹メサセ。其ヨリ二條ノ屋形へ取詰。信忠公ニモ御自害被雖候。然ハ御手前ト某事。數年ノ親ミ此時ニ候條味方ニ與シ玉フニ於テハ可爲本望候。於左候ニハ大和紀伊和泉三箇國可進ノ由被申越候。順慶モ家臣ヲ集メ評議區々ノ處ニ。何モ家老ドモ申ハ。兎角明智ノ味方ヲ被成可然ノ旨。申候トモ。松倉右近申ハ。先出馬可有之旨。御返答被成。八幡山マテ御出被成彼地能要害ノ處ニ候條。暫御在陣候得テ。樣子御見合可有。【大和記】

都に接した津の国の殿達ならびに重立った貴族は毛利との戦争に赴いてゐたのに、明智が盲目であって直に同日の諸城を占領させなかったことは、その滅亡の因となったのである。この諸城は信長の命によって破壊されて居り、兵士がゐなかった故、五百人を率ゐて行けば諸城から人質を取り、己の兵を城に入るることは容易であった。【イエズス会日本年報(1582年追加)】




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