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資料 本能寺の変】 [史料にみる本能寺の変] 「諸将の動静」


細川藤孝(幽斎)・忠興

毛利輝元殿大軍にて後卷に出被申候。秀吉公無勢にて御座候に付。御加勢被仰請候。然は明智日向守光秀殿。筒井順慶并忠興樣。此三人迄可被遣と。被仰出候。何も御陣御用意被成候事。【細川忠興軍功記】

三日(愛宕下坊)幸朝よりの飛脚(早田道鬼斎)宮津に来る、藤孝君・忠興君御仰天御愁傷甚し、暫有て藤孝君被仰侯は、我は信長公の御恩深く蒙りたれは、剃髪して多年の恩を謝すへし、其方事光秀とは聟舅の間なれは彼に与すへきや、心に任せらるへしと有、忠興君御落涙被成、御同意にて倶に御薙髪被成侯、扨光秀より沼田権之助光友(光寿院様の御弟無程忠興君に仕へて改直次)使として来り、又書簡を以御父子を招かれ候、
 覚(一本覚之字無之)
一御父子もとゆひ御拂之由尤無余儀候、一旦我等も腹立候へ共、思案之程かやうにあるへきと存候、雖然此上は大身を被出侯而、御入魂所希候事、
一国之事内々摂州を存当侯て、御のほりを相待侯つる、但若之儀思召寄侯ハヽ、是以同前候、差合きと可申付侯事、
一我等不慮之儀存立候事、忠興なと取立可申とての起(イ儀)ニ候、更無別条侯、五十日百日之内ニハ近国之儀可相堅候間、其以後は十五郎・与一郎殿なとへ引渡申候而、何事も存間敷候、委細両人可申候事、
  以上
 六月九日            光秀判
右御本書有之、堅紙也、当所は無之、
一本兵部太夫殿と有は誤なり
如斯なれ共、御同心なく弥御義心を励され侯、此時より藤孝君御隠居にて、御国を忠興君へ御談被成、御剃髪にて幽斎玄旨と御改被成候、【綿考輯録 第一巻 巻四】

六月三日、御出馬可被成とて松井・有吉等之御先手ハ宮津より半道計押出し、犬の堂迄至る比ニ、愛岩(宕)下坊幸朝僧正より之飛脚泥足ニ而御広間ニ走上り文筐差出侯、其子細は昨二日明智殿の人数俄ニ襲来り、信長公御父子本能寺と二条御所ニ而御切腹被成候との注進也、【綿考輯録 第二巻 巻九】

忠興樣は六月三日に。備中へ御出陣被成候に付。丹後宮津御居城之外に。犬堂と申所迄。御人數押出し御出相待申候所。愛宕下坊より飛脚。泥足にて御廣間へ走上り。文笈指出申候を。取次上け申候。忠興樣早御法體被遊。御出被成。信長樣御父子共に御腹被爲召候注進に候。御人數打入可申迄。被成御意候に付。御人數引入申候事。【細川忠興軍功記】

忠興君ハ信長公の弔ひ合戦の為丹波の国に攻入り二ケ所之端城を攻落され、羽柴秀吉に使を馳て光秀か逆意に与せす、丹波に攻入り支城二ツ攻落侯との御注進有(一ニ此使米田甚左衛門・三上友蔵とあり)、摂州江も飛脚を被遣、信孝并丹羽長秀ニ通して光秀に御一味なき旨を告られ侯(一ニ松井康之より告ると有)、【綿考輯録 第二巻 巻九】

本願寺顕如

六月十一日ニ惟任日向守へ御書。使ハ少進もの也。飛脚同前之分也。御文體ハ、今度屬御存分之儀。就其御入魂被頼入トノ事也。但此使途中ニアル間ニ、日向守合戰ニ打負、討死ニつきて、路次より罷歸云々。【宇野主水日記】

徳川家康、その後

五日、辛卯、城江出仕候、早々歸候て、陣用意候へ由被仰候、伊勢、おハりより家康へ御使越候、一味之儀ニ候、ふかうすへかへり候、
六日、壬辰、雨降、日待候、來八日ニ東三川衆、岡へ御より候、爰元衆ハ御左右次第之由、酒左より申來候、
七日、癸巳、かりや水野宗兵へ殿、京都にてうち死候由候、
八日、甲午、小田七兵衞、去五日ニ大坂にて、三七殿御成敗之由候、
九日、乙未、雨降、西陣少延候由申來候、水惣兵へ殿事、京都ニかくれ候て、かいり候由候、
十日、丙申、明後日十二日出陣候へ之由、酒左より申來候、
十一日、雨降、丁酉、夫丸出し候、陣十四日迄相延候由にて、夫丸よひ返候、宗兵衞殿苅屋へ御越候由候、
十三日、己亥、雨降、岡崎迄越候、城へ出候、
十四日、庚子、鳴海迄越候、
十五日、辛丑、雨降、旗本へ出候、明知ヲ京都にて、三七殿、筑前、五郎左、池田紀伊守うちとり候よし、伊勢かんへより注進候、
十六日、壬寅、雨降、明十一日ニ津嶋へ陣替可有由申來候、
十七日、癸卯、酒左手寄衆計津嶋へ陣替候、
十九日、乙巳、羽柴筑前所より、上方一篇ニ候間、早々歸陣候への由申來候て、津嶋より鳴海迄歸候、【家忠日記】




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