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民草や、末端の一兵士にまで心を配る光秀のような人物が、信長の行なう虐殺に耐えられなかったのは想像に難くないと思います。
また光秀にしてみれば、朝廷との間を取り持つことで信長を支え、武将としても能力を発揮し、「その結果が信長の栄華と権勢である」という自負を持つと共に、「比叡山の焼き討ちや一向一揆の虐殺といった出来事を産んでしまった」という罪悪感を感じたのかもしれません。
そんな中で、様々な要因が重なり「魔王討つべし」という心境に到ったのではないでしょうか。
決して己一人の為の決起ではなく、「降魔の利剣」を振るう心境だったのだろうと考えます。
でも惜しいですよね。
2人とも能力的には政治の苦手な日本人の中では、傑出してますもんね。
あの2人が協力出来ていれば、貿易立国として近世の日本って、きっと発展していて、ああいう陰鬱な自給自足の農本主義的な徳川体制は出来てないですね。
『美山町の民話 第一集』より
「桔梗塚(ききょうづか)」
---中洞(なかぼら)--
秀吉といくさがいよいよあやうくなった時や。荒木山城守が光秀のところにやってきた。そして、
「このいくさは、とても勝てそうにもございません。わたしが身がわりになりますから、いっこくも早くここからにげのびてください。」
と言うのじゃ。
わが身を思う荒木山城守の心にうたれた光秀は、その言葉にしたがう決心をしたんじゃな。数人のけらいとともに、こっそりとおちのびていった。
それを見とどけた荒木山城守は、
「われこそは、明智光秀なり。」
と名のって身がわりにたたかったという。が、ついに敗れ、おちのびる途中、農民の竹やりでつかれて死んでしまったんじゃ。
中洞村にかくれ住んでおった光秀は、荒木山城守の恩をなんとか子孫に残そうと考えた。荒木の荒と、彼の恩の深さの深をとって荒深小五郎(あらふか こごろう)と姓を名のったということや。
そして、中洞村で静かにくらしておったが、慶長五年(一六〇〇年)に関ヶ原の合戦がおこると、家康にみかたしようと中洞村を出発したんじゃ。
厚見郡藪川(あつみぐん やぶかわ)まで来た時やった。この川をわたろうとしたんじゃが、運悪く増水していたためにおし流され、亡くなってしまったということや。光秀、七十五歳の時やったそうな。
光秀のけらいの又五郎(またごろう)、忠右衛門(ちゅうえもん)、彦太郎(ひこたろう)、親兵衛(しんべい)らは、光秀の遺品を大切に持ち帰った。そして、中洞に墓をたてたんじゃ。
これが、今の中洞上ノ街道古屋敷というところにある石の塔と、五輪の塔じゃが、この墓が桔梗塚とよばれているのは、光秀の家紋が桔梗であったからじゃろうなあ。
住本 雄司 さん のご意見 URL: 看板のない博物館 Sep/6/1997
勝手な想像ながら、私は伏線にある源氏と平氏の対立に注目しています。
平氏の流れである織田信長は、どんなに実力があっても征夷大将軍にはなれない。
「土岐は今、天が下しる・・・」の土岐は源氏ですから、明智光秀は、源氏こそ征夷大将軍として天下に号令をかけるべき、という使命感があったように思います。
同じく、源氏の流れの徳川家康も、明智光秀討伐には積極的でなかった。
信長に山陰出征を命じられた時、後醍醐天皇の退治に出かけながら、途中で引き返して六波羅を攻め滅ぼした足利尊氏の行路を、思い出したに違いない。
尊氏の謀反も、平氏である北条氏への源氏の復讐でした。
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