本能寺・妙覚寺襲撃の謎 目次



本能寺・妙覚寺襲撃の謎 序

八切止夫氏は「信長殺し、光秀ではない」の中で、明智勢による二条御所襲撃に言及し次のように書いています。

二条に、そういう厄介な城があることは、もし寄手が丹波亀山衆なら、前に内藤党が、ここに籠城していたから、それは百も承知の筈である。
だから妙覚寺から移動せぬように、そこの日蓮宗の寺(妙覚寺)を囲んでしまうか、又は、二条御所へ入りこまぬように、すぐさま防いで遮断してしまうのが、当たり前ではなかろうか(作品社版「信長殺し、光秀ではない」2002年5月、178ページ)

これから書く「謎」はこの不可解な点に焦点を合わせて書かれています。私にも何故なのか判らないのです。
はっきり言えるのはこれが「本能寺の変」の最大の謎であり、最大の「押さえどころ」だと思うのです。
幾多の研究者がこの「変」に目を向ける中で、この点に首を傾げる人は八切氏以外一人もいません。

レゴの兵隊さん
レゴの兵隊さん
この問題を考えるのに私は次の物を用意しました。

  • 1メートル四方の京都地図。市販の京都地図を拡大撮影したもの(上は上御所、下は本能寺を範囲とする)
  • 子供のおもちゃ・レゴの兵隊さん30人。

注意すること

  • 本能寺、妙覚寺、町屋、武家御城、二条御所(下御所)、上御所の位置は正確に覚えること。アバウトにしない。([本能寺周辺位置関係図]参照)
  • 二条御所、二条城、二条屋敷の名称を混同しないこと。この時点、誠仁親王の住んでいた二条御所しか存在しない。

本能寺址石柱
中京区油小路通蛸薬師山田町
本能寺址石柱
<1.>の位置関係について曖昧にしている文章が非常に多い。

  • 本能寺・・・東西150メートル、南北300メートルとし南北に長細く描くものがまだまだ多い。
    これは高柳光寿氏の「本能寺の変・山崎の合戦」を参照したもので誤り。
    よく「此付近 本能寺址」と彫られた石柱の写真が掲載されますが、たしかにその付近ではあるけれどその方向に本能寺は存在しなかったのです。その逆方向(北側)に本能寺はあったのです。
    その写真は四条坊門から南方面を撮影したもの。
  • 町屋についてもこれは重要な役割を果たしたにもかかわらず、また上杉屏風でも視覚的に確認できるにもかかわらず、言及されたとしてもエピソード的に2,3行くらい。
  • 二条御所にしても名称を二条城としたり、位置も足利義昭の住んだ武家御城としたり混乱しているものがまだあります。

本能寺址石柱遠景(本能寺から南を望む)
中京区油小路通蛸薬師山田町
本能寺址石柱遠景
以上のことに注意し、レゴの兵隊さんを動かしてみるのです。本能寺を囲ませたり、妙覚寺へ向かわせたりするのです。

そうすると文字面で考えていると見過ごしがちな様々な疑問がわき出てくるのです。 『ノート』 19ページ『訂正・加筆』 78ページ

(H9.10.12)



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