[
資料 本能寺の変
][
本能寺の変 ゆかりの地
][明智光秀の塚(明智光秀首塚)]
天正十年六月十三日、山崎の戦い、羽柴・明智両軍の戦い-明智光秀の塚(明智光秀首塚)-
本能寺の変 ゆかりの地 位置関係図
本能寺の変 ゆかりの地 一覧
明智光秀の塚(明智光秀首塚)
撮影場所(Google マップ)
三条通から白川に沿って左岸(下流に向かって左側)を南に進むと、[明智光秀の塚]という案内板があります。
その路地を左手に折れると、すぐ先に明智光秀の塚があります。
史料には以下のような記述が見られます。
十三日ニ於山崎表かつせん(合戦)あり、惟日まけられ、勝龍寺(山城乙訓郡)へ被取入候、從城中夜中ニ被出候、於路次被相果候、首十四日ニ到來、本能寺 上様御座所ニ、惣之首共三千斗(ばかり)かけられ候、
[宗及茶湯日記他会記、天正十年六月十三日条]
十三日に、山崎付近で合戦があり、惟日(光秀)は敗北し、勝龍寺城(京都府長岡京市)に入った。夜に入り城を出たが、途中で果てた。首は十四日に、上様(信長)御座所本能寺に(届けられ)、三千程の首と共に並べられた。
この碑は、[
フィールド・ミュージアム京都 いしぶみデータベース
]に[明智光秀首塚]として紹介されていますので、是非ご覧ください。
胴を埋葬したと伝えられる塚については、[
本能寺の変 ゆかりの地-明智光秀之塚(明智光秀胴塚)-
]をご覧ください。
明智光秀の塚(明智光秀首塚)祠
撮影場所(Google マップ)
光秀を祀る祠です。
中には光秀の木像などが安置されているそうです。
明智光秀の塚(明智光秀首塚)案内板
撮影場所(Google マップ)
祠の左手に案内板があります。それには、
天正10年(一五八二年)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹薮で農民に襲われて自刃、最後を遂げたと言われる。
家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。
京都市
とあります。
ただ、ここには、[家来が、光秀の首を落とし、(中略)、この地に首を埋めたと伝えられている]とありますが、[
フィールド・ミュージアム京都 いしぶみデータベース
]の[明智光秀首塚]によれば[首は粟田口附近に埋められ,その上に塚が築かれた]とあります。
本能寺の変 ゆかりの地-明智藪-
明智光秀の最期についてははこちらをご覧下さい。