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資料 本能寺の変
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本能寺の変 ゆかりの地
][堀川小路(堀川通)]
天正十年六月二日、明智勢、入京し本能寺を目指す-堀川小路(堀川通)-
本能寺の変 ゆかりの地 位置関係図
本能寺の変 ゆかりの地 一覧
七条堀川から北を望む
撮影場所(Google マップ)
明智勢は、七条堀川を左へ折れ、堀川通(堀川小路)を北上することになります(推定)。
この路の中央には大きな堀川があり、その両側を堀川小路が通っていました。
そのため[小路]とはいっても、全体ではかなりの道幅だったようです。
写真左手は西本願寺です。
本願寺は、信長生存当時は、大坂にあり、石山(或いは石山本願寺)と呼ばれていました。
当時の門主顕如は、信長の支配を嫌い、ことあるごとに対立していましたが、信長の度重なる攻勢に耐えられず、天正八年四月九日、信長に降り、石山を退去します。
ところが、この和議に反対したのが顕如の息子教如で、顕如を代表とする和議派と、それに反対する反和議派との対立が生まれます。
その後に様々な(というよりも、複雑な)経緯を経て、徳川家康の代になり、顕如の流れを汲む西本願寺と、教如の流れを汲む東本願寺が並立することになりました。
堀川五条交差点
撮影場所(Google マップ)
五条通(五条大路)より北の、堀川通の東側には塀があり、蛸薬師通(四条坊門小路)まで続いています。
明智勢は、丹波口から京に入り、七条通(七条大路)を東に進み、大宮通(大宮大路)や堀川通などの交差点を左に折れ、北に向かったと思われます。
ただ、この堀川通はある程度の道幅があり、通り左手は塀であったことから、進攻するのに都合がよかったのではないか、と想像しています。
全体の位置関係は、[
本能寺周辺位置関係図
]を参照してください。
堀川蛸薬師から北を望む
撮影場所(Google マップ)
堀川通(堀川小路)と蛸薬師通(四条坊門小路)の交差点から北を望んだところです。
堀川通を北上して来た明智勢は、ここを右に折れ、本能寺を目指したものと思われます。
大宮通(大宮大路)を北上した隊は、この交差点を(写真左から右へ)直進することになります。(推定)
蛸薬師通に折れれば、150m程で本能寺です。
本能寺の変 ゆかりの地-四条坊門小路(蛸薬師通)-