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資料 本能寺の変
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本能寺の変 ゆかりの地
][四条坊門小路(蛸薬師通)]
天正十年六月二日、明智勢、入京し本能寺を目指す-四条坊門小路(蛸薬師通)-
本能寺の変 ゆかりの地 位置関係図
本能寺の変 ゆかりの地 一覧
蛸薬師通堀川東入から東を望む
撮影場所(Google マップ)
堀川通(堀川小路)から蛸薬師通(四条坊門小路)を東(写真の奥方向)に20m程進んだところです。
200m程先の右手(写真の奥中央)に本能寺が見える辺りです。
蛸薬師通南側(写真の左側)には、西洞院通まで塀がありました。
蛸薬師通油小路から東を望む
撮影場所(Google マップ)
蛸薬師通(四条坊門小路)と油小路通(油小路、写真の左右に走る通り)の交差部です。
当時の本能寺は、これから先(写真の左手奥)一町四方の寺領を占めていました。
本能寺は当時四条西洞院にあった。そしてこの前(この地に移転する前)に付近の民家は他所へ移転させ、四方に掻き上げの堀を掘り、その内側に土居を築き、木戸を設けて出入を警戒するという構えで、内に仏殿以下、客殿その他の殿舎を建て、厩舎までも設けてあるといった有様で、小城郭の観を呈していたが、まだ塀は塗らないであった。
[戦史ドキュメント 本能寺の変]
明智勢はここを二手に別れ、一隊は直進して南門(推定、写真の中央左)へ、一隊は左に曲がり油小路を北(写真の左方向)へ向かったと考えられます。
人じゅの中より、馬のり二人いで申候。たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、我等其あとニつき、かたはらまちへ入申候。それ二人ハきたのかたへこし申候。我等ハミなみほりぎわへ、ひがしむきニ参候。ほん道へ出申候、其はしのきわニ、人一人い申候を、其まゝ我等くびとり申候。
[本城惣右衛門自筆覚書]
隊の中から、騎馬の二人が出て参りました。誰かと思えば、斎藤(利三)内蔵介殿の子息(と)小姓の二人が、本能寺の方に向かいましたので、我等はその後に続き、近くの町に入りました(広い堀川通を北上して蛸薬師通に入ったということではないでしょうか)。その(騎馬の)二人は北の方(油小路を北)に向かいました。我等は南の堀沿いに東に進みました。本道(西洞院通でしょうか)に出たところで、端のところに人が一人いましたので、すぐにその首を取りました。
本能寺の変 ゆかりの地-本能寺-
蛸薬師通西洞院から東を望む
撮影場所(Google マップ)
蛸薬師通(四条坊門小路)と西洞院通(西洞院大路、写真の左右に走る通り)の交差部です。
当時、西洞院通には西洞院川が流れていました。
今も、この通りの中央部分が、少し低くなっていますが、西洞院川の名残りなのでしょうか。
蛸薬師通を直進(写真の奥方向)し、、西洞院川を渡ると、正面と右側(写真の右側)に木戸がありました。
本能寺で信長を斃した明智勢は、妙覚寺の織田信忠(変を聞き二条御所に移る)を攻めるために、この蛸薬師通を直進、或いは、西洞院通を北上(写真の左方向)したのではないでしょうか。
この道を直進すると、200m程の左(北側)に南蛮寺がありました。
本能寺の変 ゆかりの地-西洞院大路(西洞院通)-
本能寺の変 ゆかりの地-南蛮寺-