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[家康の関ケ原][第五章 家康の見ていた夢]


家康、三成を佐和山に追う

武功派と吏僚派の対立は、特に豊臣家に限ったことではなく、織田家でも、後の徳川家でもあったことですが、秀吉の朝鮮侵略を契機としてその溝は決定的なものとなっていきます。
何時、それが過激な形で吹き出しても、不思議ではないというような状況でした。
それを、かろうじて、抑えていたのが秀吉であり、秀吉亡き後の前田利家でした。
しかし、秀吉が没し、追うように、慶長4年閏3月3日壬子(1599年4月27日)、前田利家も大坂城で没します。
これに家康の分断工作も加わって、豊臣家は自壊寸前でした。

案の定、前田利家の亡くなった翌日には、福島正則・加藤清正・黒田長政・浅野幸長・細川忠興・蜂須賀家政・藤堂高虎の武功派は、吏僚派の筆頭三成を大坂城に襲撃します。
三成は、辛うじて伏見に逃げ戻りますが、その逃げ込んだ先が、こともあろうに家康の屋敷だといわれています。
(ただ、笠谷和比古氏は【関ケ原合戦】の中で、三成が逃げ込んだのは、伏見城本丸に続く曲輪内にある自分の屋敷だと述べられています。確かに、家康の屋敷に逃げ込んだという話が何に拠るのか、不勉強で分からないのですが、あれほど何度も除こうとした、その家康に庇護を求めるというのは、仮に事実だとしても、なかなか理解しにくいことに違いはありません)

その三成と武功派との間に、待っていましたとばかりに、家康が仲裁に入ります。そして、三成の奉行職を解いた上で、居城佐和山に謹慎蟄居させることで、両者の和議が成ります。

襲撃を受けた三成が蟄居という制裁を受け入れるなら、当時は喧嘩両成敗が原則ですから、襲撃した側もそれなりの制裁を受けるべきで、おかしな調停ではあったのですが、そこは家康の力でしょう。
そもそも、この襲撃に加わった諸将は、三成が家康襲撃を企てた時に、家康の屋敷に駆けつけ、進んで守備を買って出た面々ですから、家康との間に予め何らかの打ち合わせがあった、と考えても不自然ではないような気がします。


家康、伏見城を乗っ取る

和議を受け入れた三成は、同年閏3月10日己未(1599年5月4日)、結城秀康の警護隊に守られながら佐和山城に入ります。
それを待っていたかのように、3日後の同年閏3月13日壬戌(1599年5月7日)に、突然、家康は向島の屋敷から自らの兵と共に伏見城西の丸に居を移しました。

伏見城といえば、秀吉が秀頼のために改築した城です。
当主が大阪城に移って不在だとはいえ、あまりにも強引で、非難されても弁解の余地があるようには思えませんが、しかし、それに対して正面から異を唱える者は、もはや豊臣家には誰もいませんでした。
家康も、それを見越しての行動だったでしょう。
ただ、こうした行動は、家康自身も多少は抵抗に遭うことを覚悟していたのでしょうか、毛利輝元と誓紙を交換して、了承を取り付けていたといわれます。【関ケ原合戦】

更に、同年6月になると、家康は、朝鮮に出兵していた諸将に対し、国許に帰り休養することを勧めます。
確かに、長期にわたる出兵で、諸将も領国も疲弊していましたから、家康の温情に感謝する声は多かったようです。
そして、家康の真意を疑うこともなく、その言葉に従い、大老以下のほとんどが帰国しました。
気が付けば、伏見には家康がいるだけになってしまいました。

それこそが、家康の狙いでした。


家康、続いて大坂城に乗り込む

同年9月9日乙卯(1599年10月27日)、家康は、重陽の節句の祝詞を述べるため、大坂に赴き、三成の邸に入ります。
この伺候の機会を狙って、前田利家の後を継いだ利長・大野治長・土方雄久の三人は、家康暗殺を企てたとされます。
この企ては、以前から家康に近づいていた増田長盛からの密告によって伝わるところとなり、家康は厳重な警護隊に守られて、同年9月9日乙卯(1599年10月27日)、大阪城の秀頼を訪れます。

家康の伺候は、節句の祝賀が表向きの理由ですが、実際には、大坂城に居座ることが目的であったようです。
秀頼を担ぎ上げて、反家康の勢力が結集すること防ぎたかったでしょうし、自らの権勢を示すことも必要だと考えていたでしょう。
予めその地ならしもできていたようで、政務を大坂城で執ることを宣言すると、それに従って、大坂城西の丸にあった北政所は、自ら京に退き、同年9月28日甲戌(1599年11月15日)、同所に家康が入ります。

そして、同年10月2日戊寅(1599年11月19日)、家康暗殺を企てたとして、淀殿の側近大野治長を下野、土方雄久を常陸に流し、五奉行の一人浅野長政を奉行職を解いた上で甲斐に蟄居させます。
翌日には、諸将を大坂城西の丸に集め、家康暗殺を首謀したとして、前田利長を討伐するため軍を催す旨を述べ、更に、細川忠興に対しては、前田利長と通じているとして、同様に討伐軍を催そうとします。
突然の嫌疑に驚いた細川忠興は、誓紙を差し出した上に、三男光千代を人質として江戸に差し出し、前田利長も、母芳春院を人質として江戸に送ります。

こうして家康は、婚姻・移封・加増などを繰り返して、囲い込みを進める一方、枢要な人物を一人また一人と降し、反家康勢力の力を殺ぐと同時に、西の丸には天主を築き上げ、あからさまに威勢を示すなど、無人の野を進軍しているかのようです。


家康、上杉景勝に狙いを定める

上杉景勝は、慶長3年1月、越後から陸奥国会津へ転封されたばかりでしたが、そこに秀吉逝去の報が届き、同年9月に伏見に至り、一年後の慶長4年9月には、領国に戻っていました。

中央での、家康と反家康派、武功派と吏僚派との対立は深刻で、いずれ決戦は不可避と捉えていたのでしょう。
上杉景勝は、帰国すると、その備えに、盛んに城砦や道路の修築を進めました。
これが謀叛を企画してのことではないかとの風説を生み、それは家康の知るところとなります。
そこで家康は、上杉景勝に対して、弁明のために上洛するよう求めました。
しかし、景勝はこれを拒否します。
そして、慶長5年5月、上杉景勝の家臣直江兼続は、いわゆる「直江状」と呼ばれる返書を認め、家康の詰問に対して反論すると共に、「景勝が野心か、内府様御表裏か、世上の沙汰次第たるべき事(景勝が野心を抱いているのか、家康が裏切ろうとしているのか、それは世間が判断することだ)」と述べます。

この「直江状」に激怒して、家康は上杉討伐を決意したとするものもありますが、実際には、会津出征の方針は既に決まっていました。
ただ、「世上の沙汰次第」という表現は、家康の最も弱い部分を衝いたものであったでしょうから、それが家康の怒りを買ったことは、充分に想像できます。
(この「直江状」については、創作とされる方もありますが)

こうして、周囲の反対を振り切って、上杉討伐のための会津出征が正式に発令されます。
しかし、この出征は、あくまでも、秀頼の命によるものでなければなりませんでした。
圧倒的な力があったとはいえ、秀吉恩顧の諸将の帰趨も確信が持てない上に、いまだ毛利・宇喜多もあり、大義のための名分も必要でした。


家康の見ていた夢

当時、家康が、事実上、天下を采配していることは、周知のことでした。
決断さえできれば、内紛で崩壊寸前の豊臣家を滅亡に追い込むことは、家康にとって、それほど難しいことではなかったでしょう。豊臣家に代わって徳川家が天下を治めることは、充分に可能でした。
「信長が搗(つ)き、秀吉がこねた天下餅を、ただ楽々と口にする」機会は、そこにあったのです。

そのため、この頃には既に、家康は天下に狙いを定めていたとする考えもあります。
しかし、そうでしょうか。

かなり古い話ですが、信長が本能寺で倒れた時、家康は元甲斐武田家の重臣穴山梅雪と共に堺を遊覧中でした。
この変報に接して、家康は岡崎に逃げ戻りますが、途中まで同道していた穴山梅雪は一揆の襲撃を受けて死亡します。
岡崎に戻った家康は、光秀討伐の軍を催すと同時に、武田家滅亡後に家康に属した岡部正綱に対して、殺害された穴山梅雪の旧領を攻めるように指示しています。【関ケ原合戦の人間関係学】
また、秀吉が朝鮮へ兵を出すことになった時には、「渡海なされるおつもりですか」と尋ねた老臣本多正信に対し、家康は「箱根をだれが守るのだ」と答えたといいます。【信長と秀吉】

弱い部分を見定めて、自領と境を接する所から切り崩して、次第に領地を拡大をしてきたように、豊臣家の弱体化を促すために、豊臣の家臣を、一人ずつ降していったように、少しずつですが確実に力を貯えてきた家康です。
それまで、一挙に大きく打って出ることはなかった家康でした。それだけに、まだ手に入れていない「天下」よりも、苦労を重ねて手に入れた自領を守ることの方が、はるかに大事な家康だったはずです。

家康は生来、大きな夢を見ることがなかったのではないか、という気がします。
危険がないことを確信してからでなければ、どんなものにも触れてみようとはしません。
ましてや、その先に何があるの分からないまま、腕を伸ばしたり、自分の足元が固まらないうちに、一歩を踏み出すようなことは、決してしなかったのが家康です。

それでは、家康が会津出征を強行した意図は、どこあったのでしょう。
なぜ家康は、西国の毛利や宇喜多ではなく、東国の上杉に、矛先を向けたのでしょうか。

家康が怖れていたのは、豊臣家内の紛争の火の粉が、自領の関東に降りかかることだったでしょう。
しかし、今や豊臣政権の筆頭大老として、容易に大坂・伏見を離れることはできない立場にありました。
そこで、家康は、大手を振って江戸に戻ることのできる機会を、巧妙に作り上げたのです。
毛利でも宇喜多でもなく、上杉でなければならなかった理由がここにあります。
家康にとっては、霞のような「天下」よりも、豊臣家の内紛よりも、上杉の動静よりも、急ぎ江戸に戻り、自ら関東を死守することが当面の最重要課題であったのです。

少し想像が過ぎるでしょうか。
でも、どうしても、そのような感じがしてなりません。


関ケ原合戦の人間関係学】【関ケ原合戦-家康の戦略と幕藩体制】【信長と秀吉



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