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[家康の関ケ原][第六章 小山評定]


家康、江戸に戻る

慶長5年6月16日戊子(1600年7月26日)、家康は、6万余の将兵を率いて大阪を出発します。

家康が大阪を離れれば、三成を筆頭とする反家康派が決起することは明らかでした。家康ほどの者ですから、それは当然のこととして計算のうちにあったでしょう。

それに、家康は、三十年ほども前の元亀3年10月、武田信玄に三方ケ原へ誘い出され、思わぬ大敗北を期した経験があります。
家康にとって、忘れることのできない経験でしたが、今度は家康が仕掛けました。
三成は必ず出て来る、それは単なる予想ではなく、確信に近いものであったに違いありません。

家康は、三成が挙兵すれば、関東に拠ってこれを迎え撃ち、立たなければ、天下の名の下に上杉を討つ、いずれにしても、そのためには江戸に戻ることが何よりも肝要、と考えていたのではないでしょうか。

同7月2日癸卯(1600年8月10日)、家康は、長い間留守にしていた江戸城に入ります。
次いで、福島正則・黒田長政・細川忠興・堀尾忠氏・浅野幸長・池田輝政・中村一忠といった秀吉恩顧の諸将も、相次いで江戸に集結しました。

そして同7月7日戊申(1600年8月15日)、家康は、江戸に結集していた諸将を江戸城に集め、軍令を発します。
それに従い、同7月13日甲寅(1600年8月21日)、榊原康政率いる先鋒隊が、7月19日庚申(1600年8月27日)には徳川秀忠率いる徳川本隊が、7月21日壬戌(1600年8月29日)には家康自ら江戸を発ち、その後に福島正則以下の諸将が出陣しました。
その数は、7万近くに膨れ上がっていました。


三成、動く

家康が大阪を発ち三河を南下していた頃の、慶長5年6月20日壬辰(1600年7月30日)、三成は上杉景勝の重臣直江兼続に書を送り、挙兵の決意を伝えると共に、東下した家康に対する戦略について問い合わせます。

更に、三成は、家康が江戸城に入った同じ7月2日癸卯(1600年8月10日)、会津出征軍に加わるため敦賀から南下して来た大谷吉継を垂井に出迎え、佐和山に誘い、家康誅伐の意思を伝えます。
周囲を見回しても、豊臣家の向後を真剣に考えている者がいない、増田長盛のように、秀頼の近くにありながら家康に通じている者が他にもいるのではないか、と、三成は、不満や焦燥や疑心暗鬼にさいなまれていたのではないでしょうか。
それだけに、古くから親交があり、心を置けない数少ない友人であった大谷吉継は、動員できる兵力は少なくても、東軍に欠かせない人物だと考えていたでしょう。

三成の決意を聞かされた大谷吉継は、家康とも親交がありましたから、そのせいでしょうか、三成に挙兵を思い止まるよう忠告して、一旦は佐和山を出ます。
しかし、長く癩を患い、崩れた顔を隠すように頭巾をかぶり、歩行さえ不自由で、輿に乗らなければ軍を率いることもできなかった大谷吉継は、熟慮の末に、三成の必死の訴えに応えることを決心しました。
多くの将士が「利」のために動いた中で、一貫して純粋に友情を重んじ行動した、ただ一人の人物でした。

同年7月12日癸丑(1600年8月20日)、その大谷吉継に加え、増田長盛・安国寺恵瓊らが佐和山城に会合し、毛利輝元を西軍の総大将に迎えることに決めると、同7月15日丙辰(1600年8月23日)、求めに応じた毛利輝元は、海路大坂に向かい、同7月17日戊午(1600年8月25日)に大坂城に入ります。

早速、軍議が行われたでしょう。
同日、長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行名で「内府ちかいの条々」と呼ばれる檄文が発せられ、更に、「秀頼様に馳走あるべき」という西軍に与同を求める文書が、毛利輝元・宇喜多秀家の二大老名で発せられました。
加えて、大坂に留め置かれていた妻子を拘束することを決めると同時に、同7月19日庚申(1600年8月27日)からは、鳥居元忠が守備する伏見城を攻囲、同7月26日丁卯(1600年9月3日)には細川幽斎の丹後田辺城を攻囲します。

この間、こうした大坂方の動きは、五奉行の一人増田長盛によって、逐一、家康に報告されていました。
東軍を上回る将兵を動員した西軍でしたが、情報戦ではほとんど無策に等しい状態でした。


家康、小山に諸将を集める

一方、家康は、慶長5年7月24日乙丑(1600年9月1日)、下野国小山に到着し、翌7月25日丙寅(1600年9月2日)には、諸将を招集します。
そこで家康は、大坂の状況を説明した上で、諸将に去就を問います。
その問いかけに、豊臣家譜代筆頭の福島正則が、大坂に残してきた妻子を犠牲にしても、家康に従い三成を討つことを誓うと、黒田長政もそれに続き、更に山内一豊に至っては、居城の掛川城を家康に開放すると言い出します。
こうなると、最早反対の意見を言い出せる雰囲気はなくなり、大勢は決まります。

余談ですが、この山内一豊は、天正9年2月、信長が京都で催した「御馬揃」に名馬を引いて参加し、信長を驚かせたという人物です。
小禄だった山内一豊は、妻が貯えた黄金十両をもって名馬を求めたという逸話が残っており、これが元で、その後、大名に取り立てられます。
更に、関ケ原合戦後は土佐20万石の大名にまで出世しました。
山内一豊については、殆ど知識がありませんが、こうしてみると、なかなか世渡りの上手な人物のようです。

この最初に口火を切った福島正則には、家康の意を受けた黒田長政が、早い時期から説得を続けていましたから、当然の結果ともいえるのですが、もう一つ、家康の芸が細かい点は、それが江戸ではなく、小山で催されたということではないか、と考えています。

というのは、家康が江戸を発った同7月21日壬戌(1600年8月29日)には、既に三成決起の情報を得ていたでしょうから、純粋に諸将の去就を確かめるだけが目的であれば、江戸で問えば済んだはずです。
それを秘して小山まで出征したのは、徳川秀忠率いる徳川の本隊が出発してしまった後であることや、反転西上する前に上杉を牽制しておく必要があったこともあるのでしょうが、平服よりも軍装で催す軍議のほうが異論が出にくい(消極的な意見よりも積極的な意見が通りやすい)という計算があったとは考えられないでしょうか。しかも、その上、京に上るには家康の本拠地を避けては通れないのです。

翌日7月26日丁卯(1600年9月3日)、諸将は、家康の所領から追い出されるかのように、次々に西上をし始めます。
かくして、関東には家康とその家臣がいるだけになりました。
そして、家康は、上杉と常陸の佐竹に対する備えを整え、同8月4日乙亥(1600年9月11日)、ゆるゆると江戸に戻ります。


家康、書状の山に埋まる

江戸に入った家康は、精力的に全国の諸将宛の書状を書き始めます。その数は以下のようになります。

 7月 2日-7月24日 17通 家康が大坂から東下して江戸に入った日から、小山評定の前日まで
 7月25日-8月 3日 20通 小山評定の日から、家康が小山から江戸に戻るまで
 8月 4日-8月29日 89通 家康が小山から江戸に戻った日から、江戸を発つまで
 9月 1日-9月15日 34通 家康が江戸を発った日から、関ケ原合戦当日まで

これは、前年の慶長4年一年間で41通、慶長5年6月までで8通であったことを考えれば、異常ともいえる数であることから、家康が、この不可避となった衝突を機に西軍を倒し、更に豊臣家に代わって徳川政権を打ち立てることを意図した、と理解されることもあります。
しかし、必ずしもそうとばかりは言い切れないのではないでしょうか。

こうした大量の書状の特徴を、久保田昌希氏が「関ケ原合戦における家康の戦略と戦術」(【関ケ原合戦のすべて】)で以下のように分析しておられます。

7月は39名、8月は76名プラスα(木曽諸奉行人)、9月は28名となる。
さて、これからあきらかなように、書状は北から南までの諸将にあてられている。内容は、大きくまとめれば、7月は上杉景勝平定と石田三成等の挙兵について、8月は石田方との合戦を前提にしてその状況および諸将への政治的対応の指示、さらに9月には戦況報告といった有様であり、・・・ここで重要なことは、これら多くの書状類が、単に家康から諸将に一方的に出されていたのではないということである。・・・
このことを数値的に示すと、7月は34通のうち16通、8月は93通のうち49通、9月は34通のうち16通が、それぞれ返書として出されているのである。・・・
わたしはむしろ、諸将たちが家康への政治的接近を行った結果としての家康による書状の大量発給という視点を強調しておきたい。

更に、

慶長5年の2月には独自に自らの領国以外に知行宛行状を出し、それが同時期の豊臣氏大老連署の知行宛行状と同じか、もしくはそれ以上の意味をもちえたこと。しかも、家康の知行宛行状が出されてから2ヶ月後の4月中旬以降は大老連署の知行宛行状がみられなくなること。したがって、家康の権力は慶長5年の2月から4月頃の段階で、あきらかに「公儀」の掌握=国家的支配者としての意味を持ったということができる。

長い引用になってしまいましたが、家康は、この慶長5年の初め頃には、豊臣政権を実質的に掌握しており、そのために豊臣家の家臣が遅れまいと家康に擦り寄って行った、という側面があることを、もう少し強調されても良いのではないかという感じがします。

もちろん、家康の方でも、積極的に豊臣家臣を取り込もうとしたことは事実です。
が、だからといって、それが、三成を筆頭とする西軍を倒し、自らが天下の主となるという意志の現われ、とすることには疑問を感じます。
やはり、繰り返すようですが、西軍の力を殺ごうとしたのは、ただ、関東を守るということが第一番の理由だったのではないのでしょうか。
なにしろ、家康は既に事実上の支配者であり、進んで危険を冒す必要は全くなかったのです。


内府ちかいの条々 (家康違いの条々)

一、五人の□奉行、五人之年寄共       五人の大老、五人の奉行(年寄)とも
  上巻誓紙連判候て無幾程、年       誓紙を取り交わして幾らも経たないのに
  寄共之内、弐人被追籠候事        奉行の内、二人(三成と浅野長政)を追い込めたこと

一、五人之奉行衆内羽柴肥前守事       五人の大老の内、前田利家(羽柴肥前守)のこと
  遮而誓紙を被遺候て、身上既可被     誓紙を差し出し、違背のないことを誓ったにもかかわらず
  果候処ニ、先景勝為可討果、人質を    まず上杉景勝を討つといって、利家から人質を取り
  取、追籠候事              追い込めたこと

一、景勝なにのとかも無之ニ、誓紙之筈    上杉景勝には何の咎もないのに、誓紙の内容に
  をちかえ、又ハ太閤様被背御置目、今度  背いた上に、太閤様(秀吉)の遺命に背き、このたび
  可被討果儀歎ケ敷存、種々様々其     上杉討伐を企てたのは嘆かわしく、様々に思い止まるよう
  理申候へ共、終無許可被出馬候事     申し述べたのに、許可なく出兵に踏み切ったこと

一、知行方之儀、自分二被召置候事ハ     知行のことは、自分が受けることは
  不及申、取次をも有るましく由      もちろん、取次ぎもしてはならないという
  是又上巻誓紙之筈をちかへ、忠節も    決まりがあるのに、その誓紙に背き、忠節も
  無之者共ニ被出置候事          ない者に対して、知行を与えたこと

一、伏見之城、太閤様被仰出候留主      太閤様(秀吉)が伏見城の留守居役として置いておいた者
  居共を被追出、私ニ人数被入置候事    を追い出し、勝手に家康の家臣を入れたこと

一、拾人之外、誓紙取やりあるましき由    大老・奉行以外の者と誓紙のやり取りは、誓紙にもある通り
  上巻誓紙ニ載せられ、数多取やり候事   禁じられているのに、数多く取り交わしていること

一、政所様御座所ニ居住之事         北政所の御座所である大坂城西の丸に入ったこと

一、御本丸のことく殿守を被上候事      大坂城西の丸に御本丸のような天守を築いたこと

一、諸侍の妻子、ひいきひいきニ候て、国元へ ひいきにしている諸将の妻子を、国許へ
  被返候事                返したこと

一、縁篇之事、被背御法度ニ付て、各     縁組みのこと、遺命に背いていることを、何度も
  其理申、合点候て、重而縁辺不知其    指摘し、了承した筈なのに、重ねて数多くの縁組みを
  数候事                 行っていること

一、若き衆ニ、ろくろをかい、徒党を立させ  若い者を扇動し、徒党を立てさせ
  られ候事                たこと

一、御奉行五人一行ニ、一人として判形之事  五大老が連署すべき書類に一人で署名していること

一、内縁之馳走を以、八幡之検地被免候事   内縁者に有利なように、八幡の検地を免除したこと

右、誓紙之筈ハ少も不被相立         右のように、誓紙の内容に少しも従おうとはせず
太閤様被背御置目候ヘハ、何を以たのミ    太閤様(秀吉)の遺命に背いては、何を以って
可在之候哉。如此一人宛、被果候て之上    政を行うべきか。この上は一人残らず、決意の上
秀頼様御一人被取立候はん事         秀頼様一人を主に戴くこと、
まことしからす候也             誠に当然のことであろう

『筑紫古文書』国立公文書館内閣文庫所蔵、【史料大系 日本の歴史】を参考にさせていただきました。
「、。」は適宜挿入しました。
右は訳ですが、こうした文書の訳には不慣れで、誤りがあるかもしれません。ご了承ください。


関ケ原合戦の人間関係学】【関ケ原合戦-家康の戦略と幕藩体制】【関ケ原合戦のすべて】【史料大系 日本の歴史 第4巻 近世Ⅰ



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