本能寺・妙覚寺襲撃の謎 その4
<村井長門守貞勝らが妙覚寺へ |
本城某は北門から攻め込む直前の三宅弥平次らの後ろ姿を見ていた。 ここのところをよ~くイメージしていただきたい。 本城某は南門から突入していった。 斎藤内蔵助に関していうと彼は南門側で指揮を執っていたと私は想像しています (『ノート』 12ページ) 。 私は本能寺襲撃場面を心の中に思い描くとき、本能寺南側で憎しみを込めて(腕組みをして)本能寺をじっとにらみ据えている斎藤内蔵助の後ろ姿が見えてならないんです。
ところがなんと、なんと!
御門の外に居宅があったと伝えるのはこれが唯-の史料。 村井長門守貞勝の京における働きぶりについては谷口克広氏の「織田信長家臣辞典」が一番詳しいと思います。
東西南北のどちら側に村井長門守貞勝の居宅があったのか?
当然"襲撃部隊中枢部分が村井の居宅を襲わなかったのはなぜか?"という疑問がでてきそうなものです。
ここでまた想像をたくましくする。
"はあ、信長様がこの寺にお泊まりになっている家康様を成敗なさるということなのです"
(しばし間があって)軍勢の動かし方について文官の村井とて心得があるから、「明智光秀による謀反」と直感する。 とっさに"こちらはもうどうしようもない"と見切りをつけ、三位中将信忠様がお泊まりになっている妙覚寺はどうなっているのか?と気遣う。 供の者数人を引き連れごった返す雑兵らをかき分け(そこのけそこのけ!と)妙覚寺へ向け一目散に駆け出す。 本能寺を取り囲む明智勢のバリアを抜けると周辺には襲撃の兵士は-人も居なかった。 "はあ、はあ"と息せき切って走る村井らの周りには彼らを妨害する兵士が一人もいないことをよ~くイメージしていただきたい。 遮ろうとするなら10人、20人で充分。 まさか村井ら主従と明智勢寄せ衆が妙覚寺目指して"一緒に並んで走った"などとは考えられないでしょう。 "どうしたん、喧嘩やろか?"と騒動に驚き外に出てきた洛中の人々が走り去る村井らの周りにそこかしこにいたと想像してもいい。
村井長門守貞勝らが妙覚寺へたどり着いたとき、南方から本能寺方面の騒擾が聞こえてくるものの、妙覚寺の周辺はシーンと静まり返っていた。
"何でだ!否いな、そんなホッとしている場合じゃない"
(H9.10.25)
「この事件は町の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのように言いふらされていた」
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