本能寺・妙覚寺襲撃の謎 目次



本能寺・妙覚寺襲撃の謎 その5

<信忠らが二条御所へ避難する過程>

一般に"村井の報告を受けた信忠は信長と一手になろうとし妙覚寺を出たところ、本能寺はすでに落去との連絡を受け、二条御所へ立てこもった"とされる。
いろいろな文章を読みましたが、どれも当初の妙覚寺周辺の状況を曖昧にしているように思えてなりません。

二条御所(上杉本洛中洛外図部分)
岩波書店「標柱 洛中洛外屏風 上杉本」(1983年刊)
(上杉隆憲氏所蔵)
二条御所
本能寺襲撃と同時に妙覚寺においてもある程度の交戦は行われた、という見方は根強くあります。
しかし同時に妙覚寺へも明智勢寄せ衆が向かったのであれば、なぜ数人ばかりを従えた村井長門守貞勝らが妙覚寺へ入れたのか?
寄せ衆は一人もいなかったと考えるべきです。
「惟任謀反記」に

    "惟任は、将軍御腹を召し、御殿に火炎の上るを見て、安堵の思いをなし、信忠の御陣所を訪ぬれば、二条の御所に楯籠らるる由。
    これを聞きて、武士の息を続がせず、二条の御所に押し寄す"

とあります(『ノート』19ページ)
事態はこの通りに進んだのです。本能寺の変の襲撃過程を丹念に追った文章として高橋紀比古氏の「本能寺の変・未明のクーデター(「別冊歴史読本・織田信長 天下布武への道」所載)」があります。
氏はこの中で「そのころ妙覚寺も明智軍の-部に攻囲されていたと考えられるが、状況は判然としない」と書かれています。
これは"つじつまが合わない。どうもワカラン!"という正直な告白なのです。
高橋氏は先の文章に続けて

    信忠は門外へ出ると本能寺を目指そうとした。
    だが駆けつけた村井から本能寺周辺の戦況を聞いて断念し、二条御所で防戦しようとする

と書いておられます。
ここで問題になるのは信忠に"本能寺へ駆けつけるべきかどうか"を選択するほどの余裕があったことです。
機転を働かせるなら、単騎がけであっても安土へ舞い戻ることを選択すべきであったと考えます。
もし信忠がこの選択をしたならば信長死後の政局はどう展開したか判りません。
決定的な選択ミスと思えてなりません。
ではなぜ討ち死にを前提としたような"二条御所立て籠もり"を選んだのでしようか?(因みに二条御所は元来は織田家の京屋敷。ですから信忠にとっては勝手知った屋敷なわけです)

なぜ京を脱出しようとしなかったのでしようか?
安土へ逃げようとしても、栗田口・今道の下道にはすでに明智の手が回っている、と判断したか?<註>
京東方面は坂本の軍勢が連動して動いていると考えたか?
それで断念したのか?

どうも信忠は最初から脱出するという考えは持っていなかったように思えるのです。
当初、妙覚寺近辺へは明智勢の手は回っていなかった。
信忠の周辺には明智勢は一人もいなかった。
ということは脱出する決意をしたならば、東方面は危ないにしても洛北方面は安全そうだと判断できそうなものです。

"父を目の前で殺され、自分は敵に背を向け逃げ出す"などという行為は武者道に反する、俺にはそんな卑怯なまねは出来ない。後々物笑いの種になる。

このような武士道・倫理観あるいは常識が横たわっていたのではないか?
実際、二条御所からの脱出に成功した織田長益(信長の弟)はその後、世間から"卑性者"のレッテルを貼られた。

とりとめもない思いがめぐりますが、ここでは当初、明智家臣団中枢部分は妙覚寺へ軍勢を向けなかったことを確認していただきたい。

(H9.10.24)


<註>

    「当代記」記す・・・

    信忠曰く「このような謀反を企てる者が、諸方へ手勢を回さないはずがない。
    逃げようとしたところで途上で(待ち伏せされて)相果てるのは無念だ。徒に退くべきではない」。

    この「当代記」説は桐野作人氏「真説 本能寺(学研M文庫)」に教えられました。

(H13.12.29追記)



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