本能寺・妙覚寺襲撃の謎 その7
<二条御所襲撃の過程>
|
二条御所石柱 信忠らが二条御所へ避難し、門を閉じきってからしばらくたって寄せ衆が押し寄せてきた、と私は考えています。 南門を主要な交戦場としたのですが、どうも膠着状態になったらしい。 ちょっと途絶えた頃合いか、村井長門守貞勝が仲裁にたち、二条御所の主人・誠仁親王とその家族及び当番の公家衆の取り扱いについて交渉が持たれた。 誠仁親王等は東門から逃れ出たという。とにもかくにも親王らは危険な状況に巻き込まれたわけです。
公家
近年、明智光秀と朝廷との間に何らかのコンタクトがあり、光秀は朝廷の意を挺して信長を撃ったとか、光秀には勤王の志があったなどという観察がはやりました。 この<二条御所襲撃>の過程をつぶさに見るならば、そのような見方がいかに事実に反しているかを見据えることが出来ると思います。 妙覚寺・二条御所周辺が戦場になることがあらかじめ判っているはずなのですから、先ずもって二条御所を厳重に警護するか、誠仁親王等を密かに避難させるなどの処置をとるはずなのです。
二条御所(上杉本洛中洛外図部分)
岩波書店「標柱 洛中洛外屏風 上杉本」(1983年刊) (上杉隆憲氏所蔵) 襲撃部隊は二条御所の誠仁親王、上御所の正親町天皇の安否について全く無関心だった (『ノート』 186ページ) 。 もし光秀に勤王の志があることが確認できるのであれば、この事実は本能寺襲撃に光秀が関与していないことの証左になるでしょう。 ここで言いたいことはこれだけです。細かいことは省略します。
(H9.10.26)
|