<亀山城出陣>から<アピール>まで一通り自分なりにポイントを押さえてみました。
結局その総括として"信長殺害 決意成立の場面"を推定する羽目に陥ります。
通説では
"光秀は信長殺害の決意を秘め、数人の侍臣を伴って愛宕山に登った。愛宕権現の社前でおみくじを三度引き、翌朝、連歌の会を催し、天下を治める決意を詩に詠んで愛宕権現に奉納した"
だいたいこのようなものでしょう。
愛宕山中腹より桂川を望む
この時点、信長はまだ上洛していません。
光秀としては待ちかまえるという構え方であったととらえられています。
信忠に関してはこのころ上洛(21日)しており、清水寺で能を楽しむなどしていました
(『ノート』 67ページ)
。
あなただったらどのような構想を練りますか?
私だったら次のような襲撃計画を構想します。
- この時点、本能寺は信長上洛時の定宿だった(兼見は本能寺を指して"信長御屋敷"と表現しています
(『ノート』 47ページ)
。織田家が管理・運営していたと考えていいのではないか? 襲撃の第一目標。
- 本能寺門前にある村井の居宅を襲撃する。
- 本能寺襲撃と同時に信忠の宿所(妙覚寺)を襲撃する。ここは防備設備がないから落とすのは楽だろう。
- 妙覚寺の東隣にある二条御所周辺は戦場の巷になる。すぐさま誠仁親王を上御所へ避難させよう。
- 上御所(正親町天皇)を厳重に警護させる。後々御所の力を借りる場面が出てくるだろう。
- 家康は堺へ行く(28日、京を出発)から後々のことを考えこれを葬っておこう。
- 筒井順慶、津田信澄を取り込むよう策を練っておこう。
私だったらとりあえずこんな計画を練ります。実
際の展開がどうであったかはすでに見たとおりです
(『ノート』 186ページ)
。
つまり、襲撃部隊は<1.>以外何の手も打っていないのです。
きわめて近視眼的で本能寺しか目に入っていないのです。
本能寺襲撃を終えてから"はっ"と我に返ったようにすら思えるのです。
それ以降やっとそれらしき行動をとるようになる。とても変なのです。
襲撃部隊中枢が全体を統括出来る立場にあるならば(つまり光秀であるならば)このような不可解な指揮はとらないでしょう。
私が"そのとき光秀は亀山城にいなかったのではなかろうか?"と推測するのはこのようなことからです。
最近、今谷明氏の「謎解き 中世史(洋泉杜、1997.4)」を読みました。この中で氏は次のように述べておられます(大意)。
"愛宕山は眺望のない山というイメージがある。しかし一歩、月輪寺のほうに踏み出せば、市中一望の眺めが容易にえられるのだ。正確な地図のない時代であれば洛中への鳥瞰は、軍事行動にとって何より必要不可欠な戦略情報である。眼下に望む本能寺と、信長の嫡子・信忠の宿泊する妙覚寺を指し、襲撃の手はず、段取り、信忠が二条御所や内裏へ逃げ込んだ場合の討ち取り方法などについて密議をこらしたはずである(今谷明著「謎解き 中世史」61ページ)"
私は今谷氏に多大な恩恵を受けているので、氏の文章をここに引用したのは他意があるわけではありません。
私がここで言いたいこととの対比になるので引用させてもらったのです。
光秀が大局的見地から策を練ったとはとても思われないのです。
先に記したように、私は"光秀は亀山城にはいなかった"と推定します。
一方、斎藤内蔵助と三宅弥平次が本能寺襲撃の中枢をなしていたことは明らかです。
彼らとて名うての武将ですからそれなりの計画は立てられたはずです。
ところが彼らは当初、本能寺しか襲撃しなかった。
なぜ? ここで又考えます。
亀山城を出る直前まで彼らは迷っていた。
直前まで中国方面へ行くつもりだった。
だから鉄砲の玉薬、長持ちなどを西国へ向けて送り出していた。
つまり彼らは西国出陣に向けての準備に忙殺されていたと考えてよい。
疲れ切つて少し体を休めている時ふと、"今、信長の野郎は本能寺に宿泊してんだよなぁ(内蔵助は信長と同じく49才)。
あいつはいつも少人数で動き回るのが性分。あいつが中国へ出陣するのは4日と通達があったが・・・。三日後か"などとつらつら思いめぐらせているとき、突如として
"やれぬことはないな…"
という想念が内蔵助を突き動かした。
ちょっとした心の隙間に入り込んできた。
無意識層に蓄積されていた信長に対する憎しみがこの心の隙間に一挙に流入してきた。
この想念は一挙に内蔵助をがんじがらめに縛り上げた。
最後の最後になって"やってしまおう。誰を? 信長を? 馬鹿な!"という思いが彼の頭の中を駆けめぐった。
そんな思いにとりつかれながら内蔵助は"自問自答"した。
精一杯理性的になろうとしたが無意識層に蓄積された信長に対する憎しみはそれを許さなかった・・・。
こんな斎藤内蔵助における"心の葛藤"を考えるわけです。
だから計画らしきもの・青写真・タイムテーブルなしでことに臨まざるを得なかった。
彼の頭の中には"今、上様は本能寺にいる"という想念しかなかった(理性を呼び覚ますことは困難だった)。
それ以外のことは視野に入ってこなかった。
"これより三草越えをして西国へ向かう"と言うべきかどうかまだ迷っていたとき、つい斎藤内蔵助は"これより東へ向かう"と言ってしまった。<註>
こんな感じではなかったかと思うんです。
何も計画らしきものを練っていなかったからこそあれほどまでに衝動的で杜撰な(初期の襲撃)行動になったと思うんです。
以下は省略し、次の<総括(注釈なしのシナリオ)>に続きます。
<追記>
私はこの<謎>連載を書きつづる中で、ようやく本能寺・妙覚寺襲撃が"衝動的で、計画性をもっていなかった"とのキーワードにたどり着きました。
ところが気が付いてみると朝尾直弘氏はすでに"光秀の挙兵後の行動を見ると、反逆は衝動的で、彼自身が計画性や展望を持った痕跡は認められない"と指摘しておられるのです(『ノート』184ページ 同文)。
朝尾氏がいかに鋭い感性を持っておられるかを改めて思い知らされました。そして私が"書きながら考える人間"だということを再認識させられました。
(H9.10.26)
<註>:この推測は誤り。
「昔咄」に本城惣右衛門と同じく光秀方の武士(雑兵?)として本能寺襲撃に加わった人物の回顧談が記されており、この人物は「丹波から遠国の備中に行くのに甲冑を着ていくのは、後になって考えてみればおかしな事だった」と述懐しているとの事(「その時歴史が動いた2」P.156)。
この武士の述懐は、出陣の準備をする段階において、指導部分はすでに信長殺害の腹を決めていたことを示すとても重要な証言です。
(H.11.10)
|