本能寺・妙覚寺襲撃の謎 その11
<襲撃主体について>
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襲撃主体として「組み合わせ」的に改めて考えてみます。
検討対象は次の通り。
- 惟任日向守
- 斎藤内蔵助、三宅弥平次(この二人は確実、共にもと稲葉一鉄家臣、
(『訂正・加筆 その二』 24ページ)
- その他重臣たち(溝尾勝兵衛、明智治右衛門、藤田伝五、並河掃部など。これらは実在の武将)
A.<1.>+<2.>
この3人のみが密議をこらした、と考えてみる。
"内蔵助 おぬしは信長様を、弥平次 おぬしは信忠を討ち取れ"
と最小限の役割分担が出来たのでは無かろうか?
B.<2.>のみ
重臣としてこの二人のみが軍勢を指揮し動かしたとする見方。つまり<3.>へも本意を知らせなかった。
しかも理性を失い衝動に任せて軍勢を動かした。これは私が採る推定。
だが、依然として謎。私にも判らないのです。
「本能寺の変」の「本当の謎」はここにあるのだと思う。
C.<2.>+<3.>
少なくとも重臣6人が密議を持ち、共通意思を確認できたならば"三人寄れば文殊の知恵"の言葉のあるごとく、少しは理性的な行動をとれたのではないか?
みなさんはどのように考えられますか?
<最後に>
「本能寺の変」は丹波武士団による検地反対一揆である、などと大上段に振りかぶった大見得を切ったような格好になりました。
従来の「変」考察とあまりにも質を異にする見方なので"何スットンキョウなこと言ってるの?"、と違和感をもたれる方がおられるかもしれません。
<その8>に書いた"たとえ話"、"土佐の例"、"視角"は
"ちょっと見る角度を変えてみようよ!"
"もうちょっと社会史学的に考えてみようよ!"
と、提言をする気持ちで付け加えました。
侍
私の父は東京都奥多摩郡檜原村(ひのはらむら)の出身です。
ちょっと前まではとっても辺鄙な村でした。
土地の人でないと入り込むのが困難と思われるほどの僻地でした。
"東京のチベット"、"お医者さんのいない村"としてテレビなどで紹介されていたくらいです。
先日(10月30日)、父が「檜原村史」という分厚い本(1120ページ)を読んでいたので、ちょっと借りて目を通してみました。
なんと、こんな辺鄙な村においても、慶長三年(1598)に検地が行われているのです。
詳しいデータが残っているのです。大変驚きました。
もしこのときの検地施行に対し"抵抗する動きがあった"という記事があれば"我が意を得たり"となったのでしょうが、そこまでは書いてありませんでした。
けれどもこの検地に対する抵抗はあったのです。
というのはその中に"出分 24貫30文"という書き入れがあるのです(隠していた? 申告しなかった?)。
これはこの検地によって新たに打ち出された分のこと(つまりその前にも検地があったことを示唆する)。
解説文には"屋敷があまり増えていないのに畑が5割以上も増していることが特に注目される"と書いてあります。
ここに「抵抗の強さ
(『訂正・加筆 その二』 22ページ)
」を見るわけです。
今の私には郷土史的な物の見方、郷土史的な感じ方が欠けています。
土に根ざした共感が弱い。少しそちらの方へ心を向けていきたいと思っています。
(H9.11.2)
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