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資料 本能寺の変】 [本城惣右衛門覚書]

信長襲撃の際、一番に本能寺に突入したと述懐する本城惣右衛門による、その時を伝える一文です。
本城惣右衛門覚書(天理図書館報「ビブリア」 NO.57 昭和49年6月)から抜粋し、薄色文字で私訳を加えました。
誤りもあるかと思います。お気付きの点がありましたら、ご指摘頂ければ幸いです。


あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、
ほんのふ寺へ我等よりさきへはい入候などゝいふ人候ハゞ、
それハミなうそにて候ハん、と存候。

明智(光秀)が謀反し、(織田)信長様に腹を召させた時、
本能寺に我等より先に入ったという人がいたら、
それは全て嘘であろとうと思います。

其ゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、
ゆめともしり不申候。

その理由は、信長様に腹を召させようとするとは、
夢にも知りませんでした。

其折ふし、たいこさまびつちうニ、
てるもと殿御とり相ニて御入候。
それへ、すけニ、あけちこし申候由申候。

その頃、太閤様(羽柴秀吉)は備中(現岡山県)にあって、
(毛利)輝元殿と合戦の最中でした。
(信長様より)明智に対して、その助勢に向かうようご指示がありました。

山さきのかたへとこゝろざし候へバ、
おもひのほか、京へと申し候。
我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、
いゑやすさまとばかり存候。
ほんのふ寺といふところもしり不申候。

山崎(京都府乙訓郡)の方に向かおうとしておりましたが、
意外にも、京へ(向かう)との指示がありました。
我等は、その頃、(徳川)家康様が御上洛中とのことでしたので、
(討つ相手は)家康様とばかり思っておりました。
本能寺がどこにあるかも知りませんでした。

人じゅの中より、馬のり二人いで申候。
たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、
こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、
我等其あとニつき、かたはらまちへ入申候。

隊の中から、騎馬の二人が出て参りました。
誰かと思えば、斎藤(利三)内蔵介殿の子息(が)
小姓と共に、本能寺の方に向かいましたので、
我等はその後に続き*1、近くの町*2に入りました。

それ二人ハきたのかたへこし申候。
我等ハミなみほりぎわへ、ひがしむきニ参候。

その(騎馬の)二人は北の方*3に向かいました。
我等は南の堀沿いに東に進みました。

ほん道へ出申候、其はしのきわニ、人一人い申候を、
其まゝ我等くびとり申候。

本道*4に出たところで、端のところに人が一人いましたので、
すぐにその首を取りました。

それより内へ入候へバ、もんハひらいて、
ねずミほどなる物なく候つる。
其くびもち候て、内へ入申候。

それから(本能寺の)中に入りましたが、門は開いていて、
鼠でさえもいない様子でした。
取った首を持って中に入りました。

さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたよりはい入、
くびハうちすてと申候まゝ、だうの下へなげ入、
をもてへはいり候へバ、ひろまニも一人も人なく候。
かやばかりつり候て、人なく候つる。

恐らく北門から入った(と思われる三宅)弥平次殿と母衣衆の二人が、
「首は捨てろ」とおっしゃるので、堂の下に投げ入れ、
本堂に入りましたが、広間には誰もいませんでした。
蚊帳が吊ってあるばかりで、人はおりません。

くりのかたより、さげがミいたし、しろききたる物き候て、
我等女一人とらへ申候へバ、さむらいハ一人もなく候。
うへさましろききる物めし候ハん由、申候へ共、
のぶながさまとハ不存候。
其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。

庫裏の方に、下げ髪の白い着物を着た女がおりまして、
この女を捕らえましたが、侍は一人もおりませんでした。
(その女は)「上様は白い着物をお召しです」と言うのですが、
(それが)信長様のことだとは知りませんでした。
その女を斎藤(利三)内蔵介殿に渡しました*5。

御ほうこうの衆ハはかま・かたぎぬにて、
もゝだちとり、二三人だうのうちへ入申候。

御奉公衆(信長の家臣)は袴に肩衣で、
股立を取り、ニ三人が本堂の方へ入って行きました。

そこにてくび又一ツとり申候。
其物ハ、一人おくのまより出、おびもいたし不申、
刀ぬき、あさぎかたびらにて出申候。
其折ふしハ、もはや人かず入申候。
それヲミ、くずれ申し候。
我等ハかやつり申候かげへはいり候へバ、
かの物いで、すぎ候まゝ、うしろよりきり申候。

そこ(本堂)で又首を一つ取りました。
その者は、一人で奥の間から、帯もせずに、
刀を抜き、浅黄色の帷子を着て出て来ました。
その頃には、既に多くの味方が攻め入っておりました。
それを見て、敵は崩れました。
我等は吊ってある蚊帳の陰に隠れ、
その者が出て来て、前を通り過ぎようとしたので、後ろから切りました。

其時、共ニくび以上二ツとり申し候。
ほうびとして、やりくれ被申候。

その時の首と(門外で取った首と)合わせて二つ取りました。
褒美として槍を頂きました。

のゝ口ざい太郎坊ニい申候。

のの口ざい太郎坊*6の配下にいた時のことです。



*1 本能寺の場所を知らなかったために、斎藤内蔵介子息らの後に続いたということでしょうか。
*2 広い堀川小路(現堀川通)を北上して、四条坊門小路(現蛸薬師通)に入ったということではないかと思います。
*3 四条坊門通(蛸薬師通)と油小路の交差する辺りでのことと思います。斎藤内蔵介子息らは油小路(現油小路通)を北へ、本城らは四条坊門(現蛸薬師通)を東に進んだようです。
*4 「本道」は「大きい通り」を意味し、西洞院通かと思います。
*5 このことから、本城は斎藤内蔵介の率いる隊に属していたと考えられます。
*6 別項に「のゝ口ざい太郎坊ニ付候へと被申候」とあり、本城の上官でしょうか。

本城惣右衛門や【本城惣右衛門覚書】については、振屋裕恒さんが[本能寺・妙覚寺襲撃の謎]で詳しく述べられていますので、是非ご一読下さい。
本能寺付近については[本能寺周辺位置関係図]をご覧ください。

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