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資料 本能寺の変】 [読者のページ] 「た行」



田島 良一 さん のご意見

[その一]  May/15/1997

本能寺の変についての真相についての諸説を検証すると、どれも首をかしげるところが多々あるように思います。

例えば、遺恨説ですが、確かに信長が、光秀に対して家康、穴山の接待役解任や、光秀の母が人質になった際の見殺し等遺恨を残すようなことをしたかもしれませんが、確かな確証はないですし、あの用意周到な光秀が信長襲殺において、事前準備や、本能寺の変以降の対応についても諸国も含めた調整をするはずです。ところが、光秀がとった本能寺の変における行動やそれ以降の行動は、光秀らしからぬ行動ばかりです。
たとえば、信長襲殺後、細川親子への働きかけや、毛利との事前申し合わせ、そして、魔王と恐れていた信長との対応を苦慮していた朝廷との示しあわせのなさ、残された信長家臣団との戦いの準備の遅さなど、数えればきりがないほどです。
秀吉と同じく、中途採用で家臣団のナンバー2までのぼりつめた光秀がおそまつな行動をとるでしょうか。
光秀だったら、事前に準備を整え、信長抹殺後の下地も固めて行動をとったはずです。
この光秀の行動は、遺恨説に限らず、野望説についてもいえることです。

さらに、黒幕説(家康や毛利が裏で光秀をあやつっていた?!)ですが、これも、光秀の行動以外に家康や毛利の本能寺以降の行動が、どうみても、光秀謀反を事前に予測していた(裏で操っていた)とはおもえません。
家康は、堺で遊行中、本能寺の変を知り、三河まで逃げ帰っていますし、毛利は、秀吉と和睦するにいたっているからです。

と、長くなりましたが、私個人の本能寺の変の真相は、「諜報にはめられ、慌てて信長を殺さざるをえなかった」と見ています。

信長の裏切りに対する残虐な行動は、本能寺の変までの行動でもあきらなかように、信長家臣をはじめ、朝廷なども天魔王として恐れていました。
仮に光秀が謀反をおこし、信長を裏切ることを信長が知り、そして、光秀が、根も葉もないその謀反に気が付いたとしたら、光秀は、それこそ、身の毛もよだつおもいだったに違いありません。
恐らく、本能寺の変の何日か前に、そのことに気が付き、咄嗟に信長を殺すにいたったとみています。
では、いったい誰が光秀が謀反を起こすと信長に吹聴し、それを光秀にそれとなく、伝え、震えあがらせたかは、現在、調査中です。
また、考えがまとまったら、公開したいと考えています。

[その二]  May/20/1997

本能寺の変の真相(その2)です。
前回までに、光秀は、諜報にはめられ、信長に殺される前に信長を殺すことを選らんだのではと書きましたが、そのことについて、もう少し触れてみたいと思います。

もともと、光秀は、40歳を過ぎてから朝倉家に仕え、その後、足利義昭に仕えています。
足利義昭に仕えるものの、その後に信長に仕えるという、いわば、二臣に仕えることを選んでいます。光秀は、常に戦国の世の状況を見極め、権力者に歩みよっています。そんな光秀が、もっとも恐れたこと。それは、自分の選んだ状況以外の要因によって、足踏みをする状況だと思います。
現在の政治、軍事の最高実力者である信長から抹殺されるのではないかという緊迫した状況です。

信長は、実母である土田御前の愛情が弟の信行にそそがれ、自分が疎まれる中で育ち、特に、裏切り者に対する徹底的な弾圧、そして殺戮をおこないました。それは、近隣諸国の雄以上に、信長家臣団の恐れることだったと思います。信長を裏切る行為は、人々を震撼させるに値することだったのです。
信行の諜殺、叔父信光の暗殺、比叡山等の焼き討ち浅井氏の徹底的な抹殺(お市の娘3人以外の浅井家のものはすべて殺されている)、恵林寺の焼き討ちなど挙げればきりがないほど信長は、徹底的に信長に抵抗するもの、裏切りを行なったものを抹殺しています。光秀は、こういった信長の指示に対して、秀吉らと直接、手をくだした人間ですし、信長の尋常でない残虐さを身をもって感じていたとみています。
信長に対して、恐怖を感じること、それは、信長を裏切ることや、信長に抵抗することだったのです。

そして、信長に光秀謀反を内通した人間、光秀に信長が、謀反を知っているとそそのかした人間こそが、本能寺の変の黒幕であるとみています。
今、考えられる黒幕としては、毛利と対峙していた秀吉、元武田家家臣の穴山梅雪、足利義昭、とみています。それらを整理すると、毛利+足利義昭+秀吉の工作、武田家の元家臣である穴山梅雪らの諜報ではないでしょうか。
秀吉と毛利を一体とみたのは、毛利と対峙している秀吉が、大きな戦も行なわず、ただ対峙している中で、信長に抜群のタイミングで応援を要請し、結果的に光秀が、大軍を連れることになったことや、本能寺の変後にあまりにもたやすく毛利と和睦したこと(たしかに、秀吉、黒田官兵衛にしてはたやすいことだったかもしれないが)がその理由です。

次回以降には、もうすこし黒幕をしぼった考えを述べてみたいと思います。


たっくん さん のご意見  Jan/31/1999

なぜ本能寺の変は起こったのか、100年経っても答えはでないでしょうね。時間が経てば経つほど本能寺の変から時間が経つので・・。
明智光秀に聞くしかないですね。それが無理だから悩むんですよね。

あくまで自分の考えですが、やっぱり、光秀は朝廷を守りたかっただけだと思う。恨みだけで信長を殺しても、せっかく統一しかかっている日本をまた乱すだけぐらいは、光秀ほどの武将なら解るはずです。
答えを探すと、明智家が滅びようとも、朝廷をないがしろにする織田信長を倒したかっただけだと思います。それに本能寺の変の時に、信長の後継者信忠もいたのは光秀には嬉しい誤算だったでしょう。

こうして考えて見ると本能寺の変後の光秀の行動の意味も納得いくんじゃないでしょうか。


谷 学 さん のご意見  Aug/26/1997

惟任日向守/明智光秀がなぜ本能寺の変に至ったか、興味の尽きない話題として過去幾多の文芸作品のテーマとされていますが、私見を述べさせていただけば、概ね下記のパターンに分類出来ると思うのです。

1.積極自発的行動説:

光秀の野望説(なんかゲームの名前みたい・・・)があたるでしょうか。
しかし、光秀自身は明智家の軍律の中で、低い身分だった自身のことを、信長が引き立ててくれた大恩に報いるためこの軍律を制定したとしており、教養人で常識家の光秀が、信長を押しのけ自らが天下を望んだとは考えにくい。
彼は主人に愛されるNo.2の地位の方が居心地がよかったのではないだろうか。織田”天下”政権での彼の役割はまさにそれを期待されていたのではないか。

2.切迫・自衛行動説:

ではその線で、信長家臣団の中で、彼以外にも中央貴族社会との折衝業務を出来る者が育った時点で、信長が小賢しい光秀を追い出しにかかった、
又は、光秀が(秀吉等と比較して)出世の機会を逃していくのに焦って行動を起こしたという説や、
もっと極端な場合、信長のいじめに耐え兼ねて謀反したという諸説はどうかというと、
後者については完全に徳川政権下での思想教育的雰囲気が強く(歌舞伎の「時は今桔梗の旗揚げ」に見られる様な)、いまいち納得感に乏しい。
又、前者は、末期の奢り高ぶった信長像が本当ならありえないでもないが、光秀ほどの有能な人材をそれでお払い箱にしてしまうだろうか?(林・佐久間等の譜代の家臣と違い、自ら引き立ててきた家臣である!)
日本を天下政権の下に統(す)べたあと、信長は当然海外へも目を向けていただろうに、優秀な部下をこの時点で追い出すだろうか?

3.陰某説:

これは一考に値するのだが、では一体誰が陰某を企図したか。
正親町天皇足利義昭羽柴秀吉徳川家康、高野山、本願寺等が候補か。
皇室は、既存の権威を受け入れない信長の姿勢を脅威に感じていたから・・足利義昭は当然幕府滅亡を恨み・・・秀吉・家康の野望、又は、信長への恐怖感・・・そして、宗教界をも服従させる信長の威圧に対する反抗・・・どれも理由になりそうですが、個人的には皇室か、秀吉乃至家康(又は両者)あたりが面白いと思う(失礼!)のですが。
二条御所に人質(事実上)の誠仁親王を、天皇即位させ傀儡としようと信長が考えたとて不思議はない。これは十分皇室にとって危機的状況である。
他方家康としては、以前は対等同盟だった信長も今は主人面、最愛の息子も殺され、恨みはあるだろうし。天海僧正とのエピソードなんか見ていると、実は光秀は生き延びて後天海となり、家康に天下を取らせたなんてのが、案外光秀ぽくて良い様な気もするし。第一「神君伊賀越え」なんて、穴山梅雪の様な立派な影武者がいて、その上伊賀者の頭領である服部半蔵を伴ないながら危険だったなんて言うあたり十分怪しい。
秀吉については、やはり何故「中国大返し」が出来たのかがやはり争点かな。

4.精神的圧迫説:

案外気に入っているのがこの説、即ち光秀が長年のストレスで、出世競争のおくれや些細な信長とのすれ違いを気に病み、心身症になって(俗に言う血迷ったってやつですね)謀反しちゃったとか。
即ち、光秀という人物は、信長とは又違った意味で近代人であった訳で、現代のエリートサラリーマンが陥るこの様な症状があっても良いのではないかと思うのですが。

ところで梅雪の影武者説について補足させてください。

家康が梅雪を己の影武者に仕立てたと思っているのは、次のような事情によるものです。

  1. 本能寺の変の際、周知の通り堺を物見遊山していた二人は、三河・遠江の領主と駿河の領主、いっしょに逃げる方が合理的です。
    ただでさえ数名の供回りしか連れていなかった二人、「ここは一つ、ふたりで連れもていかみゃ」 なんて言う方が理にかなっているのではないでしょうか。
    それが二人は別行動・・・何故?

  2. さて、その梅雪の逃走予定ルートはというと、これもまた腑に落ちない。
    かれは、和泉・摂津から大和・近江・美濃・信濃を経て甲斐に至る予定だったとされているのです。
    なんで光秀の本拠地坂本や、当然光秀に占拠されている安土をわざわざニアミスして、自分の領地でもない甲斐に行くのか。
    しかも、当時の甲斐は、織田の領国とはいえ、河尻秀隆の身さえ危うい地。しかも、武田恩顧の者にとって裏切り者の梅雪が、なんで甲斐なんかに行かなければならないのか?

  3. 梅雪の後、穴山家は滅びたかというと、後に家康が遺児に家を継がせていますよね、それも本家の武田の名跡を。
    何故これだけ厚遇する必要があるのか。

以上の不思議な点を説明出来る唯一の考え方は、家康が自らの安全を確実にするために梅雪を身代わりにした、まあ半蔵なんぞが、「徳川家康があのあたりを落ちのびとるで」 とか何とか言い触れて回って、本物の家康は安全だった、なんて所では?
まあ梅雪だって立派な大名だし、一見してそれらしければよかったのではないでしょうか?


たまき さん からのお便り  Jul/2/2002

なにせ趣味で歴史をやっているだけなので皆様のように深い評価は出来ません。
でもやはり信長の台頭は、鉄砲にあり、その鉄砲と絡むキリシタンやキリシタンに改宗した大名・商人たちの動向などには、注意するものがあると思います。
後、徳川政権崩壊に繋がる、ペリー来航後の明治維新なんかもやはり外国勢力は怪しい。
維新後の明治政府などは、薩長政権であり、その山口県と鹿児島県には、「ザビエル記念館」などというものが建てられています。(怪しい・・・)

最近、少しキリシタン恐怖症に落ち入ってる私でした。

ちなみに amazon.co.jp で見たら

・「信長殺し、光秀ではない 八切意外史」
・「徳川家康は二人だった 八切意外史」

が復刻版で出ていました。


土田 信嗣 さん のご意見  Dec/11/1999

不毛な江戸時代との認識をお持ちの方が多いようですが、一度石川英輔氏の「江戸シリーズ」を読まれると考え方に深みが出ます。

歴史には大きな流れがあり、一人の人物を抹殺した位では、流れを変えることはできません。

パレスチナと和解を図ったイスラエルのラビン首相が暗殺され、一時期和平交渉は頓挫しましたが、現在では和解交渉が一段と促進しています。
万一、信長が全土を掌握したとしても、中国やヨーロッパの如き、帝国主義には向かわなかったと考えます。
それは天皇という世俗を超越した権威が存在し、武家の権力を抑制した筈だからです。
頭脳明晰な明智光秀が信長を抹殺することを決意したのは、朝廷がそれを示唆し、事後の保証を与えていたから、と考えています。

それが証拠に、変後、朝廷は光秀に勅使を派遣して、安土にて光秀を祝っています。
信長暗殺の実行者は明智光秀、黒幕は誠仁親王、近衛前久、吉田兼和、加担者は本多正信?と私は考えています。

羽柴秀吉は、安土や京都、堺に多くの諜者を放ち、信長や味方武将の動静を調査、把握していたと想像します。
その結果、光秀の謀反を事前に掴み、備中で固唾を飲んで畿内の行方を見守っていたことでしょう。
結果的には信長の油断と信忠の判断ミスが秀吉に天下をもたらし、後継者難に付け込んだ家康が天下を相続した。

信長、秀吉、家康と人物が変わっても、「東海武士団」が武家権力を把握したことになります。
秦漢、隋唐と同じように、秀吉が制度を創設し家康が継承し、二百数十年の安定をもたらしたことになります。

江戸時代は不毛な時代ではなく、希なほど戦いのない平和で文化的な生活がおくれた時代ともいえます。
資源を大量に消費し、文化的にも買売春都市といえる現代よりも、はるかに高尚な時代と私は考えています。

皆様の意見をお待ちしています



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