総合目次のページ 「本能寺の変」に関する資料集です 当サイトの全ページを一覧でご覧いただけます すべてのページの更新履歴です
資料 本能寺の変】 [読者のページ] 「は行」



八田 雅生 さん からのお便り  URL: 「京都大好きな方」に特別招待  Mar/10/2002

光秀謀反、信長襲撃のルートは当時の丹波街道(山陰道)ではなく、明智越から、唐櫃越を経て、松尾に出て、四条街道を東に進撃したとされています。 (参考地図 [亀山から本能寺へ])
いろいろ伝説がありますが、文献として、「歴史地名大系・京都府の地名」及び「地理から見た信長・秀吉・家康の戦略」と「景観から歴史を読む」(共に足利健亮著・氏は京大教授で歴史地理学の大家)などがあります。
私はこの学説が正解であると思います。一度読んで見てください。

私は京都生まれの京育ちです。
わたしもホームページ(「京都大好きな方」に特別招待)を始めました。
光秀及び秀吉から見た「山崎の戦」を書きました。この視点に立つと又、光秀を見る視点が変わって見えます。


東 幸輝 さん のご意見  Mar/21/1999

◇ 本能寺の変 朝廷陰謀説に対する反論 ◇

本能寺の変の背後に朝廷はいたのか。
これに関してははっきりと「否」ということが出来る。
論証して見せよう。

よく「朝廷陰謀説」を唱える人は、信長の勢威が朝廷のそれを大きく上回っていたと云うが、とんでもない。現実はどうか。信長は朝廷に屈服していたのである。
理由は簡単。「三職推任」だ。
これに関してくだくだしく云う気はないが、推任について先に云い出したのは朝廷ではなく信長であることは、立花京子氏の調査・研究を見れば明らかだ。信長は自ら朝廷を頂点とする体制に入りたいと希望したのだ。これを屈服と云わずしてなんと云う?
それに対して朝廷が征夷大将軍に任じようとしたことも、まずは穏当なところである。なぜか。
征夷大将軍・関白・太政大臣、この中で一番低い位が征夷大将軍だからだ。(信長の方も将軍位を望んでいたなら、ますます「屈服」の証拠になる。凌駕を目指していたなら、足利義満と同じく太政大臣・日本国王を選ぶだろう)

では、信長が征夷大将軍になることに問題はないのか。
これに関して問題とされるのが二点。平性=非源氏将軍が果たして許されるのかという点と、足利義昭がこの段階でも現役の征夷大将軍だった点だ。
実はこの点も問題はない。
まず非源氏将軍だが、先例はある。坂上田村麻呂などをあげると冗談になってしまうので幕府首班に限定するが、鎌倉幕府の第四代以降の将軍は藤性だったり親王だったりするので源氏ではない。これで十分だ。
では、現役の将軍を罷免して別な将軍を立てることができたのか。答えは「イエス」。
先例として「明応の政変」をあげておこう。
「明応の政変」とは明応二年(1493)におきた細川政元によるクーデタである。
出陣中の将軍足利義稙を追放し、政元は義稙のいとこ義澄を擁立している。翌年、義澄は征夷大将軍に就任。義稙が譲位した形跡はないから、これはもう自動的な罷免である。(ちなみに征夷大将軍が同時に二人以上立ったという先例はない)

つまり、「本能寺の変」ころの信長は、本音はどうあれ、現実的には天皇を頂点とする権門体制の傘下に入り、織田政権の安定化を図っていた時期だったのだ。朝廷にとって、積極的抹殺理由など何処にもないではないか。

今度は光秀側から論証してみよう。
もし光秀が朝廷から信長抹殺を指示されていたなら、何で彼は自らが「官軍」であることを主張しなかったのか。
変の後、光秀が縁戚の長岡幽斎に宛てた文書を見ても、「忠興を天下人にしようと思った」などと書いてはいても、「朝廷から信長抹殺を指示された」とは書いていない。書いていれば、さすがの幽斎だって光秀方に加わっていたことは間違いない。幽斎が加われば筒井順慶も加わったであろう。畿内ブロックさえ固めていれば、光秀に勝機は十分過ぎるほどあったのだ。それは光秀自身が一番よくわかっていたことであろう。しかし彼には出来なかった。なぜか。「朝廷から信長抹殺を指示」されてなかったからだ。

では何で光秀は謀反に走ったのか。
信長に対する怨恨か。
それは違う。光秀は信長と同時に信忠をも抹殺している。あまり知られてないが、信忠はこの当時織田軍団の実質的総司令官である(谷口克広氏の著作参照のこと)。 その彼を殺した以上、光秀は織田体制そのものの転覆を狙ったとしか思えない。

では何故光秀は織田体制を転覆させようと思ったのか。或いは転覆後の政権構想はいかなるモノであったのか。
その辺に関しましては、また後日まとまり次第ご報告を。

三河守 さん のご意見  URL: 家康実紀  Apr/10/1999

●三職推任問題と朝廷黒幕説について

はじめまして。三河守と申します。どうぞよろしく。

はじめに断っておきますが、本稿は、[読者のページ]で、「東幸輝氏」が論拠とされる「三職推任・信長強要説」への反論と、三職推任問題と朝廷黒幕説がどのように関係しているのかという問題について、私の私見を述べたものです。なお、本稿において、引用記号「>」を用いて引用している部分は、全て東氏の書かれたものであることを、予めお断りしておきます。

>推任について先に云い出したのは朝廷ではなく信長であることは、
>立花京子氏の調査・研究を見れば明らかだ。

これは、『天正十年夏記』(以下、『夏記』と略す)四月二十五日条の解釈が重要だと思います。恐らく、「信長への三職推任について」[6]が論拠だと思われますが、本論文に対しては、堀新氏より、「織田信長と三職推任」[9]という反論が提示されています。私自身は、堀氏の見解に概ね賛同しておりますが、本件に関しては、研究者の間でも見解が分かれており、「明らかだ」とは、とても言えるような状況ではないと思います([1],[3],[4],[5],[6],[8],[9])。

また、立花氏は「本能寺の変 新たなる視座」[8]のなかで、堀氏の見解[9]を否定しておられますが、その根拠は「信長への三職推任について」[6]と、ほぼ同じであり、現時点では、堀氏の反論[9]に対して、回答が為されているとは言えないと思います。

ここで、『夏記』四月二十五日条、及び誠仁親王消息より関係部分を引用します。

○『夏記』四月二十五日条(立花京子氏翻刻)
廿五日天晴。村井所へ参候。安土へ女はうしゆ御くたし候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候。その由申入候。

○誠仁親王消息(畠山記念館蔵)
前略… 猶際限なき朝家の御満足、古今無比類事候へハ、いか様の官にも任せられ、無油断馳走申され候ハん事肝要候、 …後略

『夏記』の記述では、特定の官位ではなく、「太政大臣か関白か将軍」という、堀氏の言葉をお借りすれば「曖昧」な推任になっています。そして、これを受けて書かれた誠仁親王消息も「いか様の官にも任せられ」と極めて曖昧な記述になっています。この消息を添えた勅使が安土へ到着したのは五月四日のことですが、信長は勅使と会うことに消極的で、楠長諳を通じて晴豊に対し、勅使に会うべきかどうかを質問しています(『夏記』五月四日条)。これだけでも、「先に云い出したのは朝廷ではなく信長である」とはいえないと思います([5],[9])。

堀氏の主張されるように、村井も晴豊もそして誠仁親王も、「誰も信長の意向を理解していないために、三職のいずれかという玉虫色の推任となった」のであり([9])、さらに勅使を迎えた信長の困惑ぶりが説明できると考えるのが妥当であると私は思います。また、事前に村井と信長が打ち合わせをしていたという事実がないことも、立証され得るものと私は思います([4],[5],[9])。

>信長は自ら朝廷を頂点とする体制に入りたいと希望したのだ。
>これを屈服と云わずしてなんと云う?

先に、東さんが論拠とされたと思われる立花氏の上記論文[6]では、そのような結論は導かれておりませんが、こちらの方はどのように御考えなのでしょうか。こちらには言及がありませんが、立花説を否定された以上、他の論拠を示されるか、あるいは何らかの史料考証が必要でしょう。

ところで、『夏記』四月二十五日条の解釈について、立花説[6]を支持された今谷明氏は、その著書「信長と天皇」[1]において、東さんと同様の結論を導いておられます。しかし、何れにしましても、定説はないというのが現状でしょう。私自身は、前述したように、その前段階の『夏記』四月二十五日条の解釈自体が、立花・今谷両氏とは異なりますので([4],[5],[9])、どちらの見解にも賛同しておりません。

>それに対して朝廷が征夷大将軍に任じようとした

これは、『夏記』五月四日条の解釈の問題ですが、こちらも立花・今谷両氏と堀・小和田両氏の間では、見解が分かれており([1],[4],[5],[6],[9])、難しい問題だと思います。まず、『夏記』五月四日条より関係部分を引用します。

○『夏記』五月四日条(堀新氏翻刻)
前略… のふなかより御らんと申候こしやうもちて、いかやうの御使のよし申候。関東打はたされ珎重間、将軍ニなさるへきよしと申候へハ、又御らんもつて御書あかる也。 …後略

恐らく、『夏記』五月四日条にみえる「将軍ニなさるへきよし」という晴豊の言葉を、朝廷の意向と解釈されているのだと思われますが、これは早計であると思います。前述したように、『夏記』四月二十五日条の「太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候」とのことから、誠仁親王消息では、「いか様の官にも任せられ」と三職のなかから、信長が好きなものを選べばよいと書かれています。この親王消息を添えた勅使が安土へ到着したのは五月四日のことであり、親王の消息が、晴豊の「将軍ニなさるへきよし」との言葉とは、異なる内容であることは明白です。また、ここで重要なのは、晴豊は勅使ではなく、勅使の付添に過ぎないということです(『夏記』四月二十七日条)。勅使ではない晴豊の言葉を朝廷の意向と解釈するのは、余りにも飛躍し過ぎでしょう。ここは、堀・小和田・桐野諸氏の指摘通り「晴豊の個人的見解」であると考えるのが妥当だと思います([4],[5],[9])。

>信長の方も将軍位を望んでいたなら、ますます「屈服」の証拠になる。

堀氏[9]の見解では、信長は将軍職どころか、三職何れの官職にも任官されることを望んでいなかったとされています。私も堀氏の見解に賛同しています。信長はこれより四年前の天正六年四月九日、「統一事業の完了までは」と言って右大臣兼右近衛大将を辞しています(『公卿補任』)。以後、信長は散位のままですが、官職上、何ら不都合は生じなかったということを考慮すべきでしょう。この時期に、信長が何らかの官職を望む、あるいは要求する必然性は、ほとんどないものと私は考えます。勅使を安土へ迎えたときの、どことなく困惑しているかのような信長の態度をみても、推任というのは、所謂ありがた迷惑のようなものではなかったのかと私は思います。従って、三職推任問題から立花氏や今谷氏の想定されるような公武対立関係を見出すことはできないという堀氏[9]・桐野氏[5]の見解が、最も妥当であるように私は思います。

>信長が征夷大将軍になることに問題はないのか。

本件に関しては、誠仁親王消息、及び『夏記』五月四日条をみれば、明らかでしょう。つまり信長が望みさえすれば、実現したものと私は考えます。

以上、みてきましたように、三職推任問題から公武対立関係を見出すことができない以上、本件と朝廷黒幕説を関連付けるのは無理があるように思われます。しかし、これだけの事情を以って、朝廷黒幕説を否定するのは、早計であると言わざるを得ません。同説の研究はまだ始まったばかりであり、研究の余地は多々残されていると言えましょう。私も含めて、長い目で、今後の研究成果を見守っていくことが求められているのではないでしょうか。

●参考文献

 [1] 今谷明氏『信長と天皇』(講談社現代新書)
 [2] 今谷明氏『武家と天皇』(岩波新書)
 [3] 岩沢愿彦氏『本能寺の変拾遺』(『織田政権の研究』・吉川弘文館)
 [4] 小和田哲男氏『明智光秀』(PHP新書)
 [5] 桐野作人氏『「本能寺の変」研究最前線』(『歴史群像シリーズ』51号・学習研究社)
 [6] 立花京子氏『信長への三職推任について』(『歴史評論』497号)
 [7] 立花京子氏『本能寺の変と朝廷』(『古文書研究』39号・吉川弘文館)
 [8] 立花京子氏『本能寺の変 新たなる視座』(歴史読本1999年3月号・新人物往来社)
 [9] 堀新氏『織田信長と三職推任』(『戦国史研究』34号)


hikaru さん のご意見  URL: HIKARU's Web Page  Nov/12/2000

僕は、ここのページではかなり少数派の“家康野心説”をおします。

朝廷主犯説をおっしゃる方々もみえますが、僕としては主犯はむしろ家康だったと思っています。

確かに、朝廷はかつてない存亡の危機ではなかったかと思います。
信長は、帝しか地名を変えてはいけないという暗黙の規則を破って地名を変えていますし、さまざまな圧力を朝廷に加えていたようです。
信長は、当時の人間にしてはかなり現代的なものの考え方の出来る人だったようで、彼のことを鬼のように思えたことでしょう。

が、ここからは僕の勝手な憶測となるわけですが、彼らは意外とのんきだったのではないかと思います。
信長が、当時の堺を陥落させた時点でかなりあせりもしたでしょうが、同時に堺を陥落させたにもかかわらず都には大きく手出しをしてこなかったというのは、“信長は、口ではああいっているが、かつての幕府と同じで、朝廷を倒すことまではしないのではないか”という希望的予測を公家たちに植えつけたのではないかと思うのです。

そこで、首謀者は“家康ではないのか”ということです。
彼こそが、信長に対して危機感をつのらせ、公家や一部の信長の部下を巻き込んで本能寺の変を起こしたのではないかと考えられるのです。

というのは、伊賀越えのことが少し気になるのです。
家康本人は、生涯の中で(長篠の戦いと並んで)危ない事件であったと言っているけれども、それほどのことかと思う。
確かに信長にちかしい人間の中で唯一といってもいい丸腰状態だったわけだから、危険だったと言っても説得力はある。しかし、あの家康が信長の統治下の堺だとはいえ、本当に兵を連れずに堺にいたのであろうか。
兵を連れていなかったというのは本当かも知れないが、それは光秀の部隊が襲ってくることがないとわかっていたのではないか。むしろ、そんな危険な状態でも光秀の部隊が守ってくれるという算段があったのではないか。

そして、三河に帰った後でも、出兵しますが山崎の合戦には不参加のままです。
間に合わない可能性が高かったとはいえ、むしろ信長直属の部下ではなく同盟者に過ぎない彼に後継者のお鉢が回ってくる可能性は低いのですから、後継者になるためには率先して光秀を打たなければならないのだけれど、それをしなかったというのは、秀吉や光秀との密約があったからではないか。

家康は、信長と実行犯の光秀から常に遠いところに身を置いて、首謀者であることをひた隠しにしていたのではないだろうか。

家康は、第一に朝廷を巻き込みます。
のんきではあったとはいえ、やはり信長のような思想の持ち主はいない方が公家衆としても都合がいいに決まっています。そして、家康は彼らの権威を利用したのです。

第二に秀吉です。
中国大返しなどというのは、やはり不自然だとしか思えない。さまざまな理由をつけて秀吉の頭の良さをもアピールしているが、秀吉の本体は本当に高松城にいたのであろうか? あまりに鮮やかすぎないか?

そして、
第三に光秀です。
彼にも、信長を討つ理由がいろいろありますが、信長を討つという野心をいだくには歳がいきすぎているようにも思えます。リスクが大きすぎないか?
しかし、朝廷の権威と、家康からの甘い密にそそのかされたのではないか?

これは、オカルトの部類になってしまうのかもしれませんが、比叡山には、本能寺の変の後に光秀が奉納した石燈篭があるということです。また、変の後の隠遁生活の中でも、関ヶ原の合戦に東軍側で参戦しようとして間に合わなかったと言う記述があるというのですが、真意はどこにあるのでしょう。

こんな話を半ばにでも信じれば、光秀と家康のつながりを勝手に想像してみたくもなります。


秘宝館昇天堂一座 さん の特別公演のお知らせ  Oct/19/1998

岡山を拠点に活躍しているNEO時代劇劇団「秘宝館昇天堂一座」の1998年度特別公演
「信長」
「信長殺しの真犯人を今暴く!」

織田の別所の猿楽一座の座長信長が恋人奇蝶に焚き付けられて、
戦国の壮大な大舞台で演じる「天下盗り」という大芝居。

猿や狸をひきつれて美濃を武田を叡山を炎のように攻め滅ぼす、
仏嫌いの信長が、「本能寺」に倒れた謎を解く。

奇想天外・抱腹絶倒・切なく甘く、美しい
八切止夫史観に基づく
戦国エンターテイメントの登場だ!

---------- 公演のご案内 ----------

上演日時: 1998年11月7日(土)14:00~/19:00~、11月8日(日)13:00~
場所: 岡山科学技術専門学校ホール(岡山駅西口から徒歩7分)
前売り: 1,500円(市内有名プレイガイドまたは秘宝館昇天堂一座へ)で好評発売中!
(電話予約: 086-273-9024 留守電にお名前連絡先を)
連絡先: 703-8281 岡山市東山2-1-19 2F ブギースタジオ内

---------- 詳しくはこちらをご覧ください ----------

特別公演 「信長」
秘宝館昇天堂一座
BOOGIE STUDIO


平田 徳昭 さん のご意見  URL: 平安楽土  Sep/12/1997

私は、基本的に黒幕は存在せず、光秀の単独犯行であると思います。

確かに朝廷がその存亡の危機に関して、光秀に対して何らかの働きかけがあったであろうとは私も思います。しかし、それは要因の一つではあっても直接的な動機ではないと思います。

光秀を謀反に駆り立てたものは、「疑心暗鬼」だと思います。

信長は家臣団の中では、光秀を最も評価していたと思います。そのため、光秀には様々な要求が突きつけられます。光秀もそれに応え、業績をあげてきました。
しかし、次第に信長の真意がつかめなくなってきたのではないでしょうか。

家康の接待や中国出陣なども、信長にしてみれば、「これができるのは光秀しかいない。」というつもりで光秀に任せたのに、光秀は「なぜ自分にばかり?」という気持ちになり、それが林・佐久間の追放もあり、ノイローゼ状態になったのだと思います。
信長も、光秀に対して自分の真意を語ったりすることはないので、当然そうなります。
総見寺(「そう」の字がないので)の件でも、自分自身が神になるなどというのは、光秀にはとても理解できなかったと思います。
やはり信長の真意が見えないと思ったでしょう。今まで、光秀には信長の考えが見えていただけに、その衝撃は大きかったと思います。

そんな状態の光秀の目に、無防備で本能寺にいる信長が映ったのです。
真っ暗な状態でただ一筋の光が見え、ついそれに向かって突っ走ってしまったのです。
だからこそ、「光秀らしからぬ」行動になってしまったのです。

信頼しきっているからこそ、相手が光秀と知った信長は、逃げることを諦め、「最期のひと暴れ」をしたのだと思います。
本能寺以前の似たケースの場合、信長は常に脱出を図っているのに、本能寺でそうしなかったのは、やはり光秀を評価していたからだと思います。

本能寺の変についてこのように考えるようになったのは、よく言われる、変後の光秀の動きが遅すぎ、すべてが後手に回っているという点からです。
ここから黒幕の存在を考える方が多いのですが、私は、いくら黒幕がいても、「正常な状態」の光秀ならば、ちゃんと対応できたのではないかと思ったのです。
そこから、光秀の精神状態を考えるようになったのです。

ちなみに、私はNHK「国盗り物語」で高橋英樹が演じた信長が好きでした。
もうひとつちなみにですが、時々本などで本能寺の変について、「信長を暗殺」と表現いている場合がありますが、13,000人も引き連れた暗殺なんてあるのでしょうか。見るたびに笑ってしまいます。

時間の関係上、急いで書いたため、私の考えがうまく伝わったかどうか不安ですが、これが私の考えです。


藤木 つかさ さん のお尋ね  May/6/2000

本能寺前夜、信長が寂光寺の僧日海を招いて碁を打たせたという話を聞きました。
寂光寺とは、現在も存在するのでしょうか。

囲碁関係の歴史HPをみていたら寂光寺の件が書いてありまして興味を惹かれたのですが、現在この名前のお寺があるのかどうしてもわかりません。
おそらく絶えてしまったのではないかと思っておりますが、実際のところを知りたいのです。
秋に京都に旅行をしたいと思い、その時にでも訪ねてみたいと思ったのが始まりです。

検索で探しても「常寂光寺」、「寂光院」以外見つかりません。

ご存知の方がいらっしゃったら是非お知らせください。

土田 信嗣 さん のお答え  Aug/19/2000

現代まで続いている本因坊や名人など、囲碁の位を確立したのが織田信長です。
これ以外にも、将棋、相撲など信長によって創られた仕組みが、豊臣・徳川と継承されて現代に続いています。
信長や秀吉、信玄の棋譜が残っており、彼らはアマ5~6段の腕前だったようです。

本能寺前夜の模様は、吉川英治氏の「太閤記」が鮮烈なイメージで残っています。

余り役に立てずご免なさい。


古川 良也 さん のご質問  Jan/16/2000

わたしの祖先に、「本能寺に先人を切って突入した明智三羽烏の一人」である『古川九兵衛』がいると伝えられています。
明智光秀の家臣で侍大将だったといわれていますが、資料が少なく、それ以外についてはよく分かりません。
『古川九兵衛』ついて何か知っていること等無いでしょうか。
もしあったら、どんな小さな事でもかまいません。教えてください。

土田 信嗣 さん のお答え  Feb/6/2000

明智光秀が本能寺に攻め入ったとき、次の三名が信長に鑓を突けたとの記述が「武辺咄聞書」にあります。
武辺咄聞書は京都大学付属図書館谷村文庫に所蔵され、菊池真一氏が編纂して、1990年に和泉書院から発行されています。

<引用>

本能寺にて信長公を明智光秀奉討時塀重門より御座の間の大庭へ乱入たるは明智内箕浦大蔵丞古川九兵衛天野源右衛門三人也
信長公は白き御単物を召十文字の鑓にて三人とせり合給ひ初は弓にて被遊候へ共弦きれ候に付弓を被捨鑓を召候  云々

この後、天野源右衛門は立花宗茂に、箕浦大蔵丞は浅野幸長に仕えたと記述されていますが、古川九兵衛がどの武将に仕えたかは記されていません。


振屋 裕恒 さん のご意見  URL: 本能寺・妙覚寺襲撃の謎  Oct/19/1998

私は十数年来「本能寺の変」の資料などを集めて参りました。そして1991年にこの事件を扱った本を自費出版いたしました。
(1992,1993年にその「訂正加筆」帳1,2を作成。総ページ数300超)
以下が私の「ノート」の摘要です。

『覚え書きノート』
<歴史小説家八切止夫氏の「本能寺の変」論をめぐって>
各章の内容(トピックス)

「信長殺し、光秀ではない」をめぐって

1.天正十年六月二日 早朝

岡田正人氏は「織田信長総合事典」(平成11年9月5日発行、雄山閣刊)のなかで本能寺の変に関する新史料「本城惣右衛門自筆覚書」を紹介しておられます。この章ではこの「惣右衛門覚書」を基軸にして本能寺・妙覚寺・二条御所襲撃過程を叙述する。

2. 思いつく儘に

本能寺、西洞院川、妙覚寺、二条御所などの正確な位置について史料をかかげ明確にしてあります。
その他、信長上洛時の宿所一覧表、変勃発時(六月二日)を中心とした前後一ヶ月弱の京都・奈良方面の天候表を作成。

3. 六月二日以前

四月二十一日からの推移を項目別に整理したもの。
その中の一つ「六月四日以降 信長の動座予定」では「武功夜話」を手がかりに、信長の高松着(予定)を六月十日か十一日と推定する。

4. 六月二日以降

光秀の敗死までの推移を項目別に整理したもの。
その中の一つ「光秀<将軍>任官」説。従来から光秀は征夷大将軍に任官されたのでは・・・という推測・憶測はあった。
この節では後年、徳川家康が将軍に任官される時、"御礼として"朝廷に銀子千枚を献納した事例(「慶長日件録」)があることを提示し、この事例と光秀が朝廷へ"御礼として"銀子五百枚献進したこととを類比する。

「謀殺<続、信長殺し、光秀ではない>」をめぐって

5.「本能寺の変」と四国・長宗我部氏の筋

一般に、長曾我部元親の内室は斎藤内蔵助の妹だといわれる。だが本当のところはそれほど単純ではない。
この問題を中心にして斎藤内蔵助をめぐる姻戚関係を探る。ここでは斉藤氏、蜷川氏、石谷氏を対象とする。

6. 蜷川氏と斎藤福(春日局)

「蜷川古文書」に記される人物(蜷川氏、斉藤氏、堀氏その他)について「寛政譜」「断家譜」などの史料を駆使して「人物特定」するとともに、「春日局は徳川家光の実母」説の周辺を探る。
蜷川(親長)氏の媒介があってこそ斉藤福(春日局)は政治の中枢場面へ躍り出るキッカケを得た。未だに一般的には気づかれていないこの盲点を摘出する。

7. 八切止夫氏の「本能寺の変」論と疑問点

八切止夫氏は本能寺の変の真因を「銀本位制と金本位制の争い」だったとする。この章ではこの周辺を探る。

「訂正・加筆」帳(その1,その2)

「ノート」に書き込まれた事実誤認を訂正。および書き漏らした重要事項を記す。その中の一つとして、信長による「城割り・検地施行」の歴史的意義を検討する。この検討を通して、天正八年から十年へかけてのこの二年間余りが、日本社会が中世から近世へと変質していく過程の端緒であったことを確認する。そしてこの問題と天正十年に生起した「変」とを関連づけることにより、「本能寺の変」勃発の本質を「丹波武士団による検地反対一揆」と結論する。
私のこの発想は歴史学者・朝尾直弘氏の文章に触発されたものですが、同じく歴史学者・三鬼清一郎氏の視角に近いところがあります。三鬼氏の所論・大意は次の通り(論文「織田政権の権力構造」 吉川弘文館刊「織田政権の研究」所収)。

<信長は、国人層を家臣に編入する場合、彼らを知行替えして在地から切り離し、被官として直接に把握することが出来ず、そのままの形で重臣層の与力として参陣させざるを得なかった。重臣層も、下部の動きに規制され、みずからも在地領主としての属性から、信長に対しても、時として独自の行動をとることがあった。畿内支配においては、伝統的に寺社本所勢力が強く、幕府の奉公衆・奉行人層の潜在力は、侮りがたいものを持っていた。これらの階層を完全に掌握するには、なお相当の時日を必要とした。こうした矛盾の中に織田政権が自滅する原因が潜んでいたものと思われる>

◆『覚え書きノート』について◆ Sep/26/1999

『覚え書きノート』は「国会図書館」および「都立中央図書館」(港区)に納本してあります。

国会図書館請求番号
○ 合 本   GB341-E70
○ 3分冊本 
 『覚え書きノート』(本体) GB341-E48
 同『訂正加筆(その1)』 GB341-E48
 同『訂正加筆(その2)』 GB315-E31
 
都立中央図書館(港区南麻布5-7-13 有栖川宮祈念公園内)
書架(請求番号不要、取り出し自由です)

◆『覚え書きノート』無料配布終了のお知らせ◆ Dec/31/1998

 10月以来、『覚え書きノート』の「無料配布について」を掲載してまいりましたが、著者から「在庫も僅かとなり、配布を終了したい」旨の連絡をいただきましたので、お知らせいたします。
 ただ、今後とも、お問い合わせには、お応えしていたきたいとのことですので、ご質問などがありましたら、下記アドレス宛にお願いいたします。

振屋 裕恒(ふるや ひろのぶ)


振屋 裕恒 さん  URL: 本能寺・妙覚寺襲撃の謎  Nov/28/1999

「本城惣右衛門自筆覚書」に関するデータ

 本能寺へ討ち入っていった雑兵のなかに、後年その襲撃情況を書き残した人物(本城惣右衛門有介)がいた。こんな貴重な史料が今(平成十一年)まで、全く(正確には"ほとんど")利用されてこなかったのは不可解という他はありません。この史料の存在が一般の歴史ファンの間で知られるようになったのは、この平成11年9月に刊行された岡田正人氏の「織田信長総合事典(雄山閣刊)」によってです。

 この中で岡田氏は「本城惣右衛門自筆覚書」を紹介しつつ、「本能寺の変」について今まであまり気が付かなかった側面を指摘しておられます。それら論点については「織田信長総合事典」を読んでいただきたい。

 今現在、どなたがこの「文書」を所持しておられるかは不明と思われます。とりあえず、この史料がどのように伝わり、どのような活用がなされてきたのかを手持ちのデータで記しておきます。

  1. 先ずはじめに林若樹(はやし わかき、本名:若吉)氏がどこからかこの文書を入手し、「一野武士の告白」を雑誌「日本及日本人(昭和5年1月、1930)」に発表し、「本城惣右衛門自筆覚書」を紹介しました。
  2. 昭和13年7月12日、林若樹氏が死去(64才)。
  3. 昭和13年9月22日、林氏の蔵書(若樹文庫)が処分されることとなり、この日、売立。この時、弘文荘の反町茂雄氏が「本城惣右衛門覚書」を落札。「若樹文庫」落札の模様、「若樹文庫」について、及び林若樹氏の人となりについては、反町茂雄氏「一古書肆の思い出 2(平凡社ライブラリー 1998年7月刊)」に詳しく書かれています。ただし、「惣右衛門覚書」の名は出ていません。
  4. 昭和14年(1939)、弘文荘「賈待古書目第13号」に「惣右衛門覚書」紹介文が掲載される。写真2葉が付される。
  5. 戦後、昭和30年(1955)、小説家の富田常雄氏がこの史料を使って「惣右衛門嘆き」を書きました。この作品は講談社編「十四人の信長(1991年11月)」に収録。
  6. 昭和33年(1958)、地方誌「兵庫史学(丹波史談)№16」に臼井芳郎氏が「奥丹波の城下村と地侍」を書き、この中で「惣右衛門覚書」の一字句を引用。"この上に昔より、良き城があり"
  7. 昭和43年(1968)、岩沢愿彦氏が論文「本能寺の変拾遺」(「歴史地理」第91巻第4号)を発表され、この中で「惣右衛門覚書」にある一字句を引用。
  8. 昭和58年(1983)、青裳堂(せいしょうどう)書店より「林若樹集(日本書誌学大系28)」が刊行される。この中に「一野武士の告白」が収録される。
  9. 平成11年9月、岡田正人氏が「織田信長総合事典」を出され、この中で「惣右衛門覚書」を紹介される。
参考 [本能寺・妙覚寺襲撃の謎]の『付録4:「本城惣右衛門自筆覚書」に関するデータ』に、新しいデータを掲載いたしました。是非ご一読下さい。

本城惣右衛門有介ってどんな人?

 戦国末期に生きた丹波生まれの野武士で、性強悍にして敏捷、死を見ること帰するが如く、敵の首を挙ぐること枚挙のいとまもなきほどの勇者でした。同時に「斬取強盗は武士の習い」の勇敢な実践者で「殺し申す女子供、山たちなどにて切り申す事数を覚え申さず候」と自ら述懐するほどの凶暴不逞の浪人でした(「古書目」)。

 壮年の時は、丹波で明智光秀を大将とする織田方の兵を相手に闘っていました。明智光秀の軍勢をさんざん手こずらせたことが書かれてあります。
 一言しておくと、この「覚書」の中には当然ながら織田方の有力武将そして丹波の有力地侍の名前が出てくるのですが、それらに混じって惣右衛門の縁者、知人、友人(これらは武者あるいは雑兵)の名前がたくさん出てくるのです。これらの人物及び情況・戦況を読み解くのはとっても難しい。別の角度からいうと、それらの人物を比定したり、戦況を特定する作業はやりがあるといえます。とはいえ、このようなことは素人では無理。専門の先生あるいは郷土史家の方々の解読作業を待つことにならざるを得ません。

 その後、今度は光秀方の雑兵として働くこととなる。
 「惣右衛門覚書」の圧巻は何といっても本能寺襲撃情況の記述でしょう。本能寺の内部での戦闘状況が書かれているのです。これについては「一野武士の告白」を読んでのお楽しみとして残しておきます。

 明智光秀が敗死してから惣右衛門はどうしたのか? 今度は秀吉の弟大和大納言秀長の手に属して、紀州の一揆の征伐に向かい、また伊勢の亀山城の攻防に手柄を立てました。城攻めの際、水はじきを用いて火を消し止めたとのこと(「告白」)。さらにその後、大坂の陣の際には藤堂家の分家方に属し徳川方となって闘いました。また伏見の城攻めにも参加しました(「古書目」)。

 そしてこの「覚書」を書いた寛永17年にはもう80歳以上の老齢に達していたのでした。曰く。

"我等あしくそだち候て、昔は、山だち(山賊)かんとうばかりにて暮らし申し・・・左様のことに度々あい申し候へ共、八十、九十まで生き申し候、地獄へは定まり申し候、臆病は致すまじく候・・・"

「本城惣右衛門自筆覚書」ってどんな体裁の文書なの?

紙の高さ9寸4分、紙数16葉、全長21尺。保存よく、読み得ざる個所殆どなし(「古書目」)。

以上は「古書目」「告白」が述べるところのものですが、残念ながら、今現在この「惣右衛門覚書」の所在は不明と思われます。一日も早く全容が明らかになって欲しいものです。

今現在、入手可能な参考資料

  1. 岡田正人氏「織田信長総合事典(雄山閣刊)」 「光秀家臣が語る本能寺の変『寛永17年本城惣右衛門自筆覚書』の紹介」
  2. 林若樹氏「一野武士の告白」 青裳堂書店刊「林若樹集(日本書誌学大系28)」に収録。 この本は総頁数717ページ、定価18,000円という高価な本です。「一野武士の告白」は11ページしかありませんから、心当たりの図書館でコピーを取るのも一つの選択と思います。
  3. 富田常雄氏「惣右衛門嘆き」 講談社編「十四人の信長(1991年11月)」収録

「本能寺の変」に関心を持つ人にとって、この拙文で述べた事柄が共有の認識・常識になることを願っています。



総合目次のページ 「本能寺の変」に関する資料集です 当サイトの全ページを一覧でご覧いただけます すべてのページの更新履歴です