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資料 本能寺の変
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本能寺の変 ゆかりの地
][山崎合戦明智本陣]
天正十年六月十三日、山崎の戦い、羽柴・明智両軍の戦い-山崎合戦明智本陣-
本能寺の変 ゆかりの地 位置関係図
本能寺の変 ゆかりの地 一覧
人物 明智光秀
明智光秀本陣跡
撮影場所(Google マップ)
サントリー〈天然水のビール工場〉京都ブルワリーの裏手に、明智光秀本陣跡碑と境野一号墳と明智光秀本陣跡の案内板があります。
この案内場には、
境野一号墳と明智光秀本陣跡
◆境野一号墳
境野一号墳は、古墳時代前期後半の前方後円墳で、四世紀後半に当たります。現在まで九次にわたる調査の結果、全長五八m、後円部径三二mを測る規模に復原されます。斜面は、後円部が二段か三段、前方部が二段に築かれています。斜面には葺石(ふきいし)を施し、平坦面には円筒埴輪を樹立させています。
埋葬施設は不明ですが、後円部の藪土からは、車輪石(しゃりんせき)・石釧(いしくしろ)などの石製品や鉄刀などが採取されています。これらは副葬品の一部と思われます。
境野一号墳が立地する下植野の段丘は、南側を見下ろすことができます。淀川を行き交う人々からの眺めを意識して造営されたことがうかがえます。
◆明智光秀本陣跡
境野一号墳は天正一〇(一五八二)年六月一三日夕刻に起こった天下分け目の天王山[山崎合戦]の時、明智光秀方の本陣が置かれた場所ではないかと考えられています。
『太閤記』の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれ、兵力は五千有余とあり、当地周辺の地形を考慮すると、当古墳上が本陣に利用されたものと考えられます。古墳のある場所は標高二五.二mを測り、周辺と比べるとひと際高く、天王山や西国街道方向に視界がひらけます。羽柴秀吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握して指揮するのにうってるけの場所が本古墳であったと言えるでしょう。
当地周辺で行った発掘調査では空堀り跡とみられる遺構が複数発見され、合戦前夜から本陣の準備が進められ、秀吉軍を迎え撃つ準備を進めていたと考えられます。また火縄銃の鉄砲玉も出土し、両軍の激戦の様子が窺(うかが)えます。
合戦は圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の勝利に終わります。光秀はわずかばかりの手勢を伴い勝龍寺城から近江坂本城に向かう途上、山科小栗栖で落ち武者狩りの村人の手にかかり、無念の最後を遂げたと言われます。
平成二三年三月 大山崎町教育委員会
とあります。
この案内板にある[御坊塚]については、[豐臣記]に以下のような記述があります。
ただ、それ以外の史料には([太閤記]は未読ですが)、見当たりませんでした。
光秀御坊カ塚ニ備五千余騎。
[豐臣記上、天正十年六月十三日条]
光秀は、御坊塚に五千余騎を配した。
本能寺の変 ゆかりの地-山崎合戦古戦場-
山崎の戦い、またその後の諸勢はこちらをご覧下さい。
史料にみる本能寺の変-明智光秀の十三日間-