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か
さ
た
な
は
ま
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(西軍→東軍)
赤座直保 [あかざ なおやす] ?-慶長11年
- 「役」では、大谷吉継の配下として西軍に属するが、小早川秀秋の寝返りを機に東軍に転じ大谷軍を壊滅させる。
- 「役」後は、所領を没収され、加賀に至って前田利長の家臣となる。
(西軍→東軍)
秋月種長、日向守 [あきづき たねなが、ひゅうがのかみ] 永禄10年-慶長19年6月13日甲午(1614年7月19日)
- 「役」では、始め西軍に属し、近江瀬田橋の警備、続いて美濃大垣城の防備に当たるが、西軍の主力が大敗すると、弟元種・相良直毎と共謀して、大垣城の垣見一直・熊谷直盛等を殺害し、東軍に明け渡す。
- 「役」後は、その功により本領を安堵される。
(東軍[豊臣])
浅野幸長 [あさの よしなが] 天正4年-慶長18年8月25日辛亥(1613年10月9日)
- 豊臣政権下で五奉行の一人であったが、秀吉が没した後は家康に接近し、細川忠興らと三成を襲い、失脚の原因を作った。
- 「役」では、東軍に属し、池田輝政と共に南宮山北麓に布陣し、毛利秀元らを牽制する。
- 「役」後は、京都の警備に当たり、紀伊国和歌山36.6千石を得る。
(東軍[豊臣])
有馬豊氏 [ありま とようじ] 永禄12年-寛永19年閏9月
- 初め秀吉に仕え、後父と共に家康に仕える。
- 「役」では、東軍に属し、慶長5(1600)年6月14日の杭瀬川の闘いで島左近・宇喜多秀家らと戦い、「役」当日は大垣城の抑えとして赤坂に陣する。
- 「役」後は、3万石を得る。
(西軍)
安国寺恵瓊 [あんこくじ えけい] ?-慶長5年10月1日辛未(1600年11月6日)
- 毛利家の外交を担っており、信長と対面した時の印象を、「信長の代は3年から五年は持つだろうが、やがて仰向けに転ぶ(横死する)だろう。秀吉はなかなかの者だ」と国元に送った書状の中で述べ、本能寺の変を予言したことが知られる。
- 「役」では、毛利輝元を西軍の総大将に推し、自らも南宮山東麓に陣したが、東軍に内応していた同じ毛利家臣である吉川広家に阻まれ、参戦することができなかった。
- 「役」後は、京で捕まり三成らと共に京の三条河原で斬首される。
(東軍[徳川])
井伊直政 [いい なおまさ] 永禄4年-慶長7年2月1日甲午(1602年3月24日)
- 幼くして家康に仕え、「徳川四天王」の一人。戦略・政略に通じ、武装・武具の色に赤を用い「井伊の赤備え」と呼ばれた。
- 「役」では、本多忠勝と共に、東海道方面の監軍となり、当日は退却する島津勢を追撃、島津豊久を討ち取る。
- 「役」後は、石田三成の旧領近江国佐和山城を与えられ、同所にて病没する。
(東軍[豊臣])
池田輝政 [いけだ てるまさ] 永禄7年-慶長18年正月25日甲申(1613年3月16日)
- 父と共に信長に仕え、信長没後は秀吉に属する。
- 「役」に先立つ慶長5(1600)年8月22日、東軍先鋒として福島正則らと共に竹ヶ花城を、翌23日には織田秀信の守る岐阜城を陥れる。
- 「役」では、南宮山の毛利秀元らの抑えとして、垂井付近に布陣する。
- 「役」後は、京都の警護に当たり、播磨姫路城52万石が与えられる。
(西軍)
石田三成、治部少輔 [いしだ みつなり、じぶしょう] 永禄3年-慶長5年10月1日辛未(1600年11月6日)
- 秀吉に仕え、佐和山城主となり、後、五奉行の一人となる。秀吉の近くにあって、官吏としの能力を発揮した。
- 「役」では、事実上西軍の総大将として指揮を執るが破れる。
- 敗戦濃厚となって近江に逃げるが、伊吹山中で捕らえられ、小西行長・安国寺恵瓊と共に斬首される。
(西軍)
上杉景勝 [うえすぎ かげかつ] 弘治元年-元和9年3月20日庚戌(1623年4月19日)
- 秀吉政権下では五大老の一人。小田原の陣の後、会津百二十万石に移封される。
- 移封後、領内の整備を進めるが、これを謀叛の兆しとされ、家康の上洛の督促に対して、これを拒んだ。そのため、家康は上杉討伐軍を催す。しかし、討伐軍は西軍決起の報に接し、下野小山での軍議で西上を決めたため、衝突は回避された。
- 「役」では、山形の最上氏を攻撃するが、西軍敗退の報を聞き会津へ撤退する。
- 「役」後は、米沢三十万石に減封される。
(西軍)
宇喜多秀家 [うきた ひでいえ] 元亀3年-明暦元年11月20日庚子(1655年12月17日)
- 宇喜多直家の次男。秀吉の養女・前田利家の娘と結婚。五大老の一人。
- 「役」では、西軍最大の軍を率い福島正則隊と交戦するが、小早川秀秋の寝返りによって大谷吉継隊が全滅すると、総崩れとなり、伊吹山方面へ敗走する。
- 「役」後は、薩摩に逃れる。死罪は免れるものの、領地を没収され八丈島に流される。
(西軍)
大谷吉継、刑部 [おおたに よしつぐ、ぎょうぶ] ?-慶長5年9月15日乙卯(1600年10月21日)
- 秀吉に仕え、数々の軍功を立て、越前敦賀城主となる。
- 三成とも家康とも親交があり、始めは上杉討伐軍に加わる予定であったが、三成に請われて西軍に加わる。
- 早くから小早川秀秋の寝返りを察知し、松尾山北麓に陣して、警戒を怠らなかったという。
- 「役」では、藤堂高虎・京極高知隊と交戦、倍する敵に対し一時は大きく押し込む場面もあったが、昼過ぎ寝返った小早川秀秋・脇坂安治隊らの攻撃を受け、大谷隊は壊滅、吉継も自刃する。
- 癩を患っており、視力・歩行も困難であったとされるが、寡兵ながら奮闘、戦場で没した只一人の将であった。
(西軍→東軍)
小川祐忠 [おがわ すけただ] ?-慶長6年
- 初め明智光秀に仕え、後に柴田勝家、柴田勝豊に仕える。勝豊没後は秀吉の直臣となる。
- 「役」では、初め西軍に加わり、大谷吉継の配下として北国口の防衛に当たり、後に松尾山北麓に布陣したが、当日になって脇坂安治・朽木元網らと共に東軍に寝返り、大谷隊を壊滅させた。
- 「役」後は、小早川秀秋らと共に三成の佐和山城攻撃に加わったが、改易となった。
(東軍[豊臣])
織田長益・有楽斎 [おだ ながます・うらくさい] 天文16年-元和7年12月13日庚辰(1622年1月24日)
- 信長の弟。茶人として高名で、利休七哲の一人。信長が本能寺で倒れた後は、秀吉に属した。
- 「役」では、東軍に加わり、古田重勝・寺沢広高隊らと小西行長隊を攻撃する。
- 「役」後は、大和の3万石を与えられたが、慶長19(1614)年の大阪冬の陣では篭城軍に加わる。
(西軍)
織田秀信 [おだ ひでのぶ] 天正8年-慶長10年5月8日壬午(1605年6月24日)
- 織田信忠の長子で幼名を三法師といい、本能寺の変の後の清洲会議で織田家の後継となる。
- 「役」では、上杉討伐軍に加わる予定であったが、三成の勧めで西軍に加わり、岐阜城に入る。
- 「役」に先立つ慶長5(1600)年8月23日、西上して来た東軍先鋒隊の池田輝政らの攻撃を受け開城、剃髪して高野山に入る。