あ
か
さ
た
な
は
ま
や~
(西軍)
佐竹義宣 [さたけ よしのぶ] 元亀元(1570)-寛永10(1633).正.25
- 常陸54万石の大名。
- 三成・上杉景勝と結びつきが強く、形の上では上杉攻めのために兵を出したが、目立った軍事行動をしなかった。
- このため「役」後は、秋田20万石に国替えとなった。
(東軍[徳川])
榊原康政 [さかきばら やすまさ] 天文17(1548)-慶長11(1606)
- 幼少より家康に仕える。「康」は家康の偏諱。
- 「役」に先立つ上杉攻めに参戦し、後秀忠に従い東山道を西上するが、信州上田の真田昌幸攻撃に手間取り「役」には間に合わなかった。
- 「役」後は、上野国館林10万石を安堵され、安国寺恵瓊を預けられる。
(東軍[豊臣])
真田信之・信幸 [さなだ のぶゆき] 永禄9(1566)-万治元(1657)
- 真田昌幸の長男。
- 「役」では、父昌幸と次男幸村が西軍に加わり、長男信之は東軍に加わることにしたとされる。
- 「役」後は、父昌幸・次男幸村が紀州九度山に流されたの対し、沼田など9.5万石を与えられる。
(西軍)
真田昌幸、安房守 [さなだ まさゆき、あわのかみ] 天文16(1547)-慶長16(1611).6.4
- 信濃上田城主。初め武田氏に属したが、天正10(1582)年に武田氏が滅亡した後は徳川氏に属する。
- 「役」では、一旦は上杉攻めに従軍したが、真田家存続のため真田昌幸と次男幸村が西軍に加わり、長男信幸は東軍に加わることにしたとされる。
- 「役」後は、次男幸村と共に紀州九度山に流され、当地で没する。
(西軍)
真田幸村・信繁 [さなだ ゆきむら・のぶしげ] 永禄10(1567)-元和元(1615).5.7
- 真田昌幸の次男。人質として秀吉の許に送られるが厚遇され、それが後に反徳川の急先鋒となった理由とされる。
- 「役」では、父真田昌幸と共に西軍に加わり、中山道を西上する徳川秀忠軍の攻撃を受けるが、上田城を拠点にしてこれを防ぐ。この真田父子の頑強な抵抗にてこずった秀忠軍は、結局、「役」に間に合わなかった。(この秀忠軍には、兄の真田信之が加わっていたが、幸村が戸石城を放棄したため、辛うじて兄弟同士の衝突は避けられた)
- 「役」後は、兄の真田信幸の助命嘆願を聞き入れられ、父真田昌幸と共に紀州九度山に幽閉される。
- その後、「冬」では大坂城に入り、真田丸を築いて徳川軍の攻撃に耐えたが、「夏」では善戦するも戦死する。
- 幸村という名は良質の史料には見えない。
(西軍)
島勝猛・左近・清興 [しま かつたけ・さこん・きよおき] ?-慶長5(1600).9.15
- 元筒井家の家臣で、後三成の家臣となる。「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と当時の落首にうたわれた。
- 「役」に先立つ慶長5(1600)年6月14日、杭瀬川に東軍を誘い打ち破る。
- 「役」では、三成陣の前衛に位置して、黒田長政・田中吉政隊らと交戦。一時は家康本隊近くまで迫ったものの、寡兵で力尽き、乱戦の内に戦死した。
- 勝猛という名は誤り。
(西軍)
島津豊久 [しまず とよひさ] -慶長5(1600).9.15
- 薩摩島津家久の子。
- 「役」では、西軍に属し天満山東麓に布陣したが、防御に終始した。西軍が総崩れになると、一転して家康の本陣近くを通って撤退したが、松平忠吉・井伊直政・福島正則らの追撃を受け、鳥頭坂において戦死した。
(西軍)
島津義弘・維新 [しまず よしひろ・いしん] 天文4(1535)-元和5(1619).7
- 薩摩守護島津貴久の次男。天正15(1587)年、秀吉の九州征伐に無条件降伏し、以降、秀吉に属す。
- 「役」では、西軍に属し天満山東麓に布陣し、松平忠吉・井伊直政隊と交戦するが、防御に徹し他隊への協力はしなかったという。西軍が総崩れする中、家康の本陣近くを通って撤退するという、「前進撤退」の有名な話が残っている。多くの戦死者を出しながらも大坂へ逃れ、海路帰国した。
- 「役」後は、西軍に加わった諸将のほとんどが、厳しい制裁を受けたのに対して、井伊直政らの尽力により免赦され、所領も安堵された。
(東軍[徳川])
仙石秀久・秀康・盛長 [せんごく ひでひさ・ひでやす・もりなが] 天文20(1551)-慶長19(1614).5.6
- 秀吉後に家康に仕える。
- 「役」に先立つ上杉攻めに参戦し、後秀忠に従い東山道を西上し信州上田の真田昌幸攻撃に加わる。
- 「役」後は、信濃佐久5.7万石を安堵される。