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か
さ
た
な
は
ま
や~
(西軍)
片桐且元、市正 [かたぎり かつもと、いちのかみ] 弘治2年-慶長19年5月28日庚辰(1614年7月5日)
- 幼少より秀吉に仕え、「賤ケ岳」での功により3千石を与えられ、後、秀吉の直属部隊として活躍する。行政手腕を買われ、各地の検知などを担当した。「賎ケ岳七本槍」の一人。
- 秀吉の死後、秀頼の後見となり、「役」では、大坂城にあって秀頼を庇護した。
- 「役」後の慶長19年8月、方広寺鐘銘事件に際しては、家康との交渉役を務めるが、淀君らと対立、大野治長らに疑われて大坂城を退城し、大阪冬の陣では徳川方として参戦する。大阪城落城の直後に死去した。
(東軍[豊臣])
加藤清正 [かとう きよまさ] 永禄5年-慶長16年6月24日壬辰(1611年8月2日)
- 幼少から秀吉に仕え、「賎ケ岳七本槍」の一人。肥後熊本城主。文禄・慶長の役で朝鮮に出陣、虎退治の逸話が残る。
- 「役」では、東軍に属し、肥後にあって九州の西軍小西行長の宇土城、立花宗茂の柳河城を攻略。
- 「役」後は、肥後の加え、小西行長の旧領及び豊後の一部を加封され54万石を領す。
- 豊臣家の旧恩に報いるため、慶長11年、徳川家康と豊臣秀頼の会見を実現させる。
(東軍[豊臣])
加藤嘉明 [かとう よしあき] 永禄6年-寛永8年9月12日癸未(1631年10月7日)
- 秀吉に仕え、「賎ケ岳七本槍」の一人。伊予松前城主。
- 上杉討伐軍に従軍、反転した後、福島正則らと岐阜城を攻撃する。
- 「役」では、黒田長政・細川忠興らと東軍右翼に陣し、三成隊を攻撃する。
- 「役」後は、伊予20万石を与えられる。
(東軍[豊臣])
金森長近 [かなもり ながちか] 大永4年-慶長12年8月12日壬申(1607年10月2日)
- 始めは信長に仕え柴田勝家に属し、後秀吉に仕える。千利休に茶の湯を学び、茶人として高名。
- 「役」では、島津義弘隊と交戦。
- 「役」後は、2.3万石を加増される。
(西軍→東軍)
吉川広家 [きっかわ ひろいえ] 永禄4年-寛永2年9月21日丁卯(1625年10月22日)
- 吉川元春の三男。吉川家は小早川家と並び毛利家の両川と呼ばれる名門。
- 当主毛利輝元が西軍総大将になることに反対したが果たせず、密かに家康と接触し、毛利家の所領安堵を条件に内応することを伝える。
- 「役」では、西軍に属し南宮山に布陣するが、毛利秀元・安国寺恵瓊・長束正家らが参戦することを阻止、東軍の退路を塞ぐ位置にあった西軍を、封じ込めることに成功した。
- 「役」後は、周防・長門を与えられるが、毛利輝元は所領没収という結果に驚き、自分に与えられた周防・長門を毛利輝元に与えて欲しいと懇請して許される。
(東軍[豊臣])
京極高次 [きょうごく たかつぐ]
- 近江小谷の領主京極高吉の長男。高知の兄。
- 「役」では、兄高次と共に東軍に加わり、大津城を守備する。
(東軍[豊臣])
京極高知 [きょうごく たかとも] 元亀3年-元和8年8月
- 近江小谷の領主京極高吉の次男。高次の弟。
- 「役」では、兄高次と共に東軍に加わり、藤堂高虎と共に布陣し、大谷吉継隊と交戦。
- 「役」後は、丹後宮津12.3万石を与えられる。
(西軍→東軍)
朽木元綱 [くつき もとつな] 天文18年-寛永9年8月29日甲午(1632年10月12日)
- 近江朽木の領主。秀吉に仕えた。
- 「役」では、初め西軍に属し、大谷吉継に属して北国口の守備に当たったが、決戦が始まると小早川秀秋の寝返りを見て、反転大谷吉継隊を攻撃、壊滅させた。戦前から、脇坂安治・小川祐忠らと共に藤堂高虎に内通していたといわれる。
- 「役」後は、所領を安堵される。
(東軍[豊臣])
黒田長政 [くろだ ながまさ] 永禄11年-元和9年8月4日壬戌(1623年8月29日)
- 黒田孝高の子。秀吉没後は家康に接近し、小早川秀秋・吉川広家に内応を勧めるなど、東軍勝利に大きく貢献した。
- 「役」では、東軍最右翼に陣し、加藤嘉明・細川忠興隊などと、三成隊を攻撃する。
- 「役」後は、筑前福岡52万石を得る。
(東軍[豊臣])
黒田孝高・官兵衛・如水 [くろだ よしたか・かんべい・じょすい] 天文15年-慶長9年3月11日壬戌(1604年4月10日)
- 秀吉に属し、秀吉に、自分に変わって天下を治めるのは官兵衛であろうと、いわしめた名軍師。秀吉の死後は家康に近づく。
- 「役」では、子長政を家康に従わせ、自らは九州の秀頼方諸城を落とした。
(東軍[豊臣])
後藤基次・又兵衛 [ごとう もとつぐ・またべい] ?~慶長19年
- 幼少の頃から黒田孝高・長政父子に仕える。
- 「役」では、黒田長政に従い先鋒として三成隊を攻撃する。
- 「役」後、黒田長政に追われ、大坂に隠棲していたところ、大阪の陣が起き、秀頼に請われて篭城し、夏の陣で戦死。
(西軍)
小西行長 [こにし ゆきなが] ?-慶長5年10月1日辛未(1600年11月6日)
- 豪商小西隆佐の次男。敬虔なキリシタンで、秀吉に属した。
- 「役」では、織田有楽・古田重勝隊などの攻撃を受ける。小早川秀秋隊の寝返りに大谷吉継隊が崩れると、伊吹山方面へ敗走する。
- 「役」後は、三成・安国寺恵瓊らと共に京都六条河原で処刑される。
(西軍→東軍)
小早川秀秋・金吾、中納言 [こばやかわ ひであき・きんご、ちゅうなごん] 天正10年-慶長7年10月18日丙午(1602年12月1日)
- 秀吉の正室の北政所の兄木下家定の子で、秀吉の養子。後、秀吉に子ができると、小早川隆景の養子に送られる。
- 「役」では、西軍に属し松尾山に陣するが、黒田長政の説得を受け入れ、家康に応じることを決意していたとされる。しかし、戦闘が始まっても動こうとはしなかったため、家康の威嚇を受け、西軍の大谷吉継隊を側面から攻撃、それまで奮戦を続けていた大谷隊を壊滅させた。
- 「役」後は、家康に遅参を詫び、三成の居城佐和山攻撃の先鋒を勤め、それにより備前・美作51万石を与えられる。