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かつのり さん のご意見 Dec/26/1999
僕は明智光秀の謀反の原因は、公家および天皇がかかわっているような気がします。
織田信長という人は、おそらくこの当時天皇の位の簒奪、もしくは天皇というもの自体をなくしてしまおうとしていたのではないかと思います。
まず徹底した合理主義者である彼は、強大な敵がいなくなった今は、天皇の必要性をまったく感じなくなったということ、そして晩年に自らを神として総見寺にまつらせていたという事実は、そのまま自分を絶対者として他の者を認めないということです。
まして天皇の存在を許すわけないでしょう。
第三に、正親町天皇に退位をせまっていたということがあります。
しかも、この事件(本能寺の変)が起こるほんの少し前に、本能寺に公家達を集め、何らかの会談をおこなっていたことです。
おそらく正親町天皇の退位についての話でしょう。
これは何かの本で読んだ話しですが、正親町天皇が嫌いだから退位させるというよりは、天皇自体をこの世からなくすための第一段階という気がします。
そして光秀が謀反成功の後、まず天皇に拝謁して多大な献金をしているというのもとてもあやしいです。
もしかしたら、このとき光秀は征夷大将軍に任じるという約束をもらったのかもしれません。
以上、僕の黒幕は天皇と公家説です。
D. kato さん のお願い Jan/25/2001
半年ほど前に京都で『紫桔梗紋』の丸い交通安全祈願ステッカーを貼った車を見ました。
自分は坂本竜馬と明智光秀が好きで、また彼らの家紋の桔梗の花の鮮やかで清廉さが非常に好きなので、欲しくて探しているのですが見つかりません。
ステッカーはこんな感じで、周りの円の部分に寺社名と安全祈願の文字が描かれていたと思います。D. kato さん からのご報告 Jan/29/2001
解りました!
実は今日ドライヴ中偶然、進路を譲ってあげた車が、そのステッカーを後部に貼っていたのです!
『光秀公のお恵みかっ!?』
そこで書いてある文字を読もうと追いかけ回すことおよそ20km(笑)!
もうクタクタさ、向こうは逃げるし! ←当たり前か?
信号で止まるたび後ろにベタ付けして親のカタキみたいにギンギンと前見てりゃ。(笑)
そんなこんなで結果、『辯天宗』(弁天宗:あの高校野球の智弁学院の宗派)のものだと発覚しました。
ま、龍馬、光秀とは何の関係もない(?)だろうけど、辯天宗は桔梗紋で、交通安全祈願もやっているようなのでマチガイないと思います。(思いたい。)
いろいろとありがとう。助かりました!
近日中に早速いってみようと思います。
PS. 今回、何人かの方に、この桔梗のステッカーの件についてメールで尋ねてみたところ、ひとつ(ちょっと)面白い資料を送っていただきました。
ちなみに、ほとんどの方がこの質問に対して好意的に『知らないけど、覚えておくのでもし、解ったら連絡します。』と返事してくれました。
ほんとにありがとう!!!
Karimizu Hitoshi さん のご意見 Sep/15/1998
私も織田信長を尊敬するものです。
実は、信長殿の本を何冊か読んでいて感じたことなのですが、信長程の人物が明智光秀に本能寺で殺されるなど信じられないのです。
そこである一つの仮説を考えてみました。
新説 本能寺の変
織田信長は天正10年自身が病にかかっていることを知り死期が近いことを悟ります。
そこで信長は、後継者について考えます。信長は秀吉、丹羽長秀、前田利家を呼び、自分の命は長くないこと、自分の3人の息子達は天下人たる器ではないこと等をあげ、秀吉に天下を譲ると告げます。
ただし、現状で秀吉に天下を譲る事は、家中がもめるもとになるので、秀吉に一つの策を授けます。
秀吉は信長の命に従い、安国寺恵瓊に会い、毛利と和睦の準備を進める一方で、信長は、5月に徳川家康を京都に呼び、秀吉の天下を助けるよう指図します。
そして手筈どうり、信長は光秀に中国出陣を命じ、明智光秀に本能寺を攻めさせるようしむけます。
こうして秀吉は、本能寺の変後、あの有名な中国大返しが可能になったわけです。
そして秀吉は、変後明智光秀を倒し、織田家中の中で有利な立場を得ます。
その後は日本史の通りです。
いかがでしょうか。
河内 慎三 さん からのお便り Feb/10/2002
おばあさんが明智光秀の子孫です。
滋賀県大津市坂本出身です。
鬼武者の左馬の助(明智秀満)も滋賀県と書いてありました。
家が桔梗の紋です。
千原兄弟の親せきの親せきの親せきです。
クリスチャンです。
川野 博美 さん のご意見 May/18/1997
光秀決起の謎について色々言われていますが、私は皇族陰謀説を押しています。
日本の皇族は目の上にタンこぶができると陰謀で排除してきました(または、しようとしてきました)。
例をあげれば、頼朝を押さえるために義経を持ち上げ仲違いさせる、尊氏を押さえるために新田を持ち上げる(後に直義も使った)、幕末期には偽の錦の御旗まで使って討幕運動を進めた、なんてのもあります。
古くは長屋王の変など、日本の場合は陰謀によって皇位を簒奪してもあまり問題にされてないようなので、彼らが陰謀好きになっても不思議はありません。さらに、1582年頃は皇族にとって存亡の危機なのですから彼らがなにもせずにいたとは到底思えません。
私が考えている大まかな流れは以下の通りです。
だいたいこんなところです(この辺の話はきちんとまとめて発表しようと思っているのですが、時間がなくって…)。
日本の歴史は中国と違って権力者が書き換えることはさほどタブーでは無いようなので、不思議な現象(原因と結果との間に整合性がない)が起こります。有名なのでは[言継卿記]等がありますが、この辺を考えるとある事象の結果から推測しなければならないところがあると思います。
私は、信長の路線を継承した2人(秀吉、家康)がなぜ天皇家の扱いだけは3者3様なのかが不思議でした。
秀吉は天皇家と共存する道を選び、家康は[禁中並公家諸法度]等で表舞台に出てこれないようにしてしまいました。最初はあまり気にしなかったのですが、彼ら二人に共通なのは秀吉は機嫌を損ねないように、家康は力を持たないように、と天皇家を意識しているところです。
彼らは何故意識したのでしょう?
信長の近くにいた秀吉なら天皇家をつぶす、という路線でもよかったはずです。彼が親天皇派だった、というのは彼が権力者になる前には見られません。家康は何故実力もない公家にわざわざあのような法度をつくったのでしょう?
平清盛の頃から天皇家は都合のいいときだけ利用するモノになってました。放っておけばよかったのではないでしょうか?
彼らは、天皇家の陰謀が恐かったのではないでしょうか? 歴戦の武将を恐れさせるほどの事件があったのではないでしょうか?
それを恐れて秀吉は天皇制の中にとけ込み、実権を握り(征夷大将軍にならなかったのは源氏ではないからという説があるが貴族でない人間が関白になれたんだからおかしいと思う)、家康は恐怖から先手を打った。
その陰謀とは…信長暗殺しかない。
どうでしょう? 反論、ご意見お待ちします。
きんたろう さん のご意見 Feb/21/1999
本能寺の変についてですが、これは日本史の中でも最大の謎と言ってもいいのではないかと思っています。もっとも、だからこそかなり多くの説があるということなのでしょうね。
実際問題として、アンチ信長サイドとしては[光秀そそのかし]の行動を起こしたかどうかは別にしても、出来ることならば、信長を殺しかったことは確かだったと思います。
信長の天下布武とは、日本全国全てを打ち倒すという強烈な意志の表示です。はっきり言えば、周り全てが敵といっていい状態だったわけですから、当然相手も対信長の戦略は練っていたはずです。
しかし問題は、なぜ光秀は実行したのかという点だと思います。
信長は天才中の天才だったことは間違いありません。そして部下の[一所懸命]に対する評価を適切且つ正確に行ったからこそ、あれほどまでに領国を拡大させることが出来たのだと思います。
実際光秀は、織田軍団の中で最大級に評価されていたと言っていいでしょう。当時、領地の石高こそ柴田に次いで二位ですが、場所が中央部に位置することを考えると、実質的には一位であると言っていいと思います。
私には、光秀はまるで信長の親衛隊隊長のような感じを受けます。
[光秀は努力して成果を上げている、そして信長は正確に評価して待遇している]、そのような関係だからこそ、信長は光秀を信頼していたのではないでしょうか。
信長と光秀は、共に秀吉が行っている中国毛利攻めの現場に向かうところでした。これを他国の大名が知れば、光秀軍が信長の護衛に付いているものと理解したと思います。ですから[真空地帯]という考えは、後世から見た理屈だと思います。
また、行程等については、当然ある程度の打ち合わせはあったものと考えていいのではないでしょうか。
そしてあの本能寺の変は[親衛隊隊長]である光秀が裏切った訳ですから、とても下克上とは言えないと思います。下克上というのは、家老など重臣が実力をつけて主家を乗っ取るという事です。そこには理屈はともかく実力が存在します。
力道山は酔っぱらった時、ちんぴらに刺されて殺されてしまいましたが、誰も力道山がちんぴらより弱かったとは思いません。これと同じ事だと思います。あそこで裏切っても誰もついてくるわけはないのです。(秀吉が勝利者になることも当然分かりませんが)そのくらいの道理を光秀が分からないわけがないと思うのです。
あの行動は理屈ではどうしても説明がつかないと思いました。おそらく心身症、躁鬱病等の精神病にかかっていたのではないでしょうか。そして発作的に本能寺の変を起こしてしまったのでしょう。だからこそ、信長でさえ予見することが出来なかったのだと思っています。
劇団偉人舞台 さん の公演のお知らせ Aug/19/2000
劇団偉人舞台 2000年9月公演
[history]
日本には歴史の中で多くの重要人物がいて、多くの歴史的事実が存在する。 そして、髪を切らなくていいという理由だけで杉並支局に入社してきた滝一哉。 そんな彼が入社早々本社から一本の電話がかかってくる。 内容は戦国時代で明智光秀が病死してしまい、『本能寺の変』 が起きない危険があるというものだった。 会社にいたのは新入社員の滝と女性社員の生田だけだった・・・。 明智光秀の代役として戦国時代に出張する滝。 果たして無事、『本能寺の変』を起こし、織田信長を討つことが出来るのか?! そこに待ち受けている困難とは! 織田信長の生きざまを、そしてこの戦国時代の様子などを現代人の主人公の目を通して、いろいろとコメディー色も織り交ぜながら表現しています。 本当に歴史にそして本能寺の変に興味のある方に特に見ていただきたい作品なんです。 9月 8日(金)~11日(月) 東京 こまばアゴラ劇場 どちらも小さな所ですが(特に東京は100名ほどです)、役者の臨場感がより伝わる小劇場の楽しみを味わえればと思います。 |
小松 さん のご意見 Jul/8/1999
本能寺の変ですが、謎は集約すれば2つになると思います。
まず1についてですが、僕は光秀決起の動機は、光秀が天下統一後の信長の構想する体制に、不満を持っていたんではないかと思います。
別の言い方をすれば、信長の政権構想とは大勢の武将が不満・不安を持つものであったと。
具体的に申しますと、信長の政権構想とは、所謂絶対王政の如きものだったと思います。それは地方ごとに割拠する既存の勢力を一つ一つすりつぶして、全ての土地・人民を織田家の直接支配の元におこうと。その対象は家臣とて例外ではなかったでしょう。恩賞として土地はなるべく与えないか、或いは与えても一時的なものにしようと。いずれ何らかの形で没収するつもりじゃなかったかと。
天下統一後は朝鮮・明国に攻め入りますという秀吉の発言も、信長のその辺の信長の機微を察してのことではないかと思います。
そこで僕の推論ですが、光秀犯行の直接の動機は、まさにその土地への執着があったのではないかと思うのです。
鎌倉時代から武士の価値基準はまさに土地そのものにありました。まさに一所懸命です。
本能寺の変に先立つ松永・荒木の乱も、原因はこのことではないでしょうか? 彼らほど有能な人なら信長の政略にも薄々気がついていたのではないでしょうか?
次に2の疑問についてですが、僕は家康が関与していると思います。
だいたい神君伊賀越えなんて出来すぎた話だと思いませんか? 伊賀越えに際して伊賀出身の服部半蔵をたまたま伴っていたなんて。それに家康は本能寺の変直後、光秀に襲われる事を恐れて浜松に急遽帰ろうとするのですが、これもおかしいと思います。
変後、一人でも味方が欲しい光秀にとっての家康とは、厚遇こそすれ粗略には絶対してはならない存在のはずです。ましてや殺すなど。にもかかわらず逃げるように脱出した理由は、光秀と共犯であることを否定するためのものではないでしょうか? つまり光秀は欺かれたと。
というのも、史実とされる本能寺の変前後の光秀の行状に関するものの多く(ex. 信長から辛くあたられていた・情緒不安定だった等)が疑問であったり、明らかに江戸期以降の創作であったりします。これは、光秀単独犯行を印象付けるための情報操作には取れないでしょうか。
以上からの僕の本能寺の変とはこうです。
光秀は信長の天下構想にかねがね不安を感じていたと思います。その公地公民的な土地制度に。
天下統一後、無用の長物になる明智軍団はどうなるのか。織田政権下の常備軍となるのか、或いは行政官僚として吸収されることとなるのか? 寸毫でも多くの土地を貰い、そこに子々孫々暮らしていけることを無上の価値としている家臣団にとって、それは到底受け入れられることではないでしょう。そのことは長年自分と労苦を共にした家臣のことを考えれば、光秀にとっても心が痛んだでしょう。
また、自分はどうでしょう? 功業の家臣が後に粛清されることは珍しいことではありません。教養の深い光秀にとってそのことは、当たり前過ぎるほどの原理だったと思います。
一方家康はというと、その家臣団は光秀の家臣以上に土地に執着を持つ三河武士団です。しかも、武田氏が滅亡したことにより、信長にとっての自分の存在価値は確実に減っています。むしろ邪魔でさえあるかもしれない。現に、過去に信長には実子信康を殺せというまるで踏絵を踏ませるような真似もされている。
それで、家康が安土から堺へ向かうまでのどこかで光秀と誰か(堺商人の誰か)を通じて接触し、光秀をそそのかした。事が成就した暁には徳川家が全面的に光秀に協力すると。
いずれにしろ、戦国時代までは経済・政治の基盤は土地です。土地を多く持つものが政治的・経済的強者たり得る。しかし、織田政権のあたりからそれは商業へと変わっていきます。つまり、流通の経路を押さえるものが政治的・経済的強者となりつつある。
ちなみに、その後の政権を考えると豊臣政権は売るという経路は押さえ、そのため金はあったが、生産するという土地が少なかったため、戦力はなかった。
一方徳川政権は土地は押さえたが、そこから先の流通経路はあまり押さえられなかった。
信長はこの両方を押さえようとしたのではないかと思います。
それまでの武士とは土地・人民の上にいわば乗っかって、そこからの年貢による自給自足を原則としていた。信長はいわばその中間搾取的存在を出来るだけ少なくして、生産される物を直接集め、さらにそれをその先の流通に乗せることで更なる力を得ようとした、と思います。
このいわば新・旧の勢力の争いの中の出来事として、僕は本能寺の変を考えています。
ヨーロッパでも戦国期あたりには、多少の前後はあるものの、当時の日本と似たような歴史展開になってたと思うんです。
つまり、封建制→商業の発達→騎士階級の没落→王権の確立→重商主義→絶対王政といったところでしょうか。ところが、日本はこの流れは結局徳川幕府の成立と共に逆行してしまった。
このことの原因は、一つには島国日本の、周りに競争相手となる国が無かったという、地理的要因が大きいと思いますが、よりシンボリックに言いますと、ヨーロッパの絶対王政への流れが、ヨーロッパ全体の商業の発達とか、それに伴う各国の競争の激化というような状況の変化に対応すべく、言わば必然的に生まれたものに対して、日本のそれは、多分に織田信長という一人の天才により強引に進められたものであったことがあると思います。
信長は後50年ぐらい後に出現したほうが、彼の目指したことを考えると良かったんじゃないか、そう思うんです。
ですから、戦国末期、日本全体がブロック化とでも申しましょうか、各地方に群雄と呼ぶべき強大な勢力(九州の島津、中国の毛利等)が誕生しつつあった。これらが相互競争のなかでより強力な体制を模索し、その結果として絶対王政なり重商主義なりが出てくる、そう言う展開だったなら、日本の近代化は明治維新を待つまでもなく成されていたんではないか(まー歴史とはそう単純なものでもないとも思いますが)と、つい想像をはせてしまいます。
この争いは、ヨーロッパでは新勢力が勝利し、日本では結局旧勢力が勝利します。その辺が日本の歴史を考える上で僕は面白いなと思います。
以上、思いつくままという感じで書きなぐってしまいましたが、もとより乱筆・乱文はご容赦ください。また、長大な文章になってしまったことも。
惟にて一見楽着 さん のご意見 May/26/1999
私も多くの方々と同じように公家陰謀説です。
御上自身が関係していたかどうかはわかりません。しかし、今までの歴史で利害が関係することで公家が何もしないなどということがあったでしょうか。一方、光秀は、事のだいぶ前に領国を信長に取られていたのではないでしょうか。
天正3年、武田家滅亡の始まりである長篠の合戦と、光秀による丹波・丹後の経略が同時期に始まります。
光秀は、丹波・丹後の制圧中、信長より、[まことに手際が良い]と誉められている手紙が残っているそうです。信長自身、美濃に散々苦労しているだけに、光秀の手腕に素直に賛辞を送ったと思われます。
しかし、切り取りしだいと信長が約束した両国を、ほぼ平定した後、信長は、武田家をついに滅亡させてしまいますが、この頃になると、信長の光秀に対する扱いは、前述とは打って変わった過酷なものになります。
注:ここからは、私の想像です。
長篠の合戦では、当初、信長は勝てるとは思わなかったというのが私の推測です。
馬防柵も鉄砲も、貝のようにただ武田の強烈な攻撃を防ぎに防いで、とにかく引き分けに持ち込む作戦ではなかったのでしょうか。武田には、信長は尋常でない恐怖心を持っていたと想像できます。
しかし、結果はあっけないほど簡単に、武田は自滅(あくまでも自滅)します。
この武田消滅の開放感が後の信長の行動を大きく左右したと思うのは、他の多くの方と同じです。
注:ここまで
武田滅亡と前後して、家臣団の大リストラに入ります。
佐久間父子の追放とともに光秀にも丹波・丹後を神戸信孝の所領に変更すること、坂本をいずれ森蘭丸かいずれかの近習に与えること、などを宣言します。(あくまで推測)
光秀自身は、京都奉行などでわかるように、有能な執政官としての才能があったために追放などはされなかったものの、単なる代官同然の地位に甘んじなければならなかった、というものです。
同じように柴田にも、国はやるが、おまえは代官同然であると言い含めた手紙が残っているようです。
したがって光秀の所領は、信長あるいは神戸の口添えなしでは何も出来ない状態で、とても大名という状態ではなかったと思うのですが...。確かに、大名でないもの(統治者)が大軍を集めることは不可能ですが、光秀家臣団にとっては、足軽もふくめて、光秀こそ統治者であったからでしょう。
にもかかわらず、信長は、政治論理・経済論理からいって、信長または神戸がすぐに光秀にとって代われると、たかをくくっていたのではないでしょうか。
事実、神戸が丹波・丹後の衆に対して出した中国攻めの[ふれがき]が残っているとの事です。
大胆な結論:
信長は、天皇家を中心とした中央集権国家に代わって、織田家中心の中央集権国家の樹立を考えていました。
当時の日本は、[天皇家を中心とした中央集権国家]とはいっても、実質的には、有力者による独立国家の集合体であった、といってよいかもしれません。当時の人々も、統治とはそういうものであると思っていたのではないでしょうか。
しかし、織田家の内部では、特に信長の心中では、所有者と統治者とはまったく別のものである、家臣が統治している諸国は、信長自身あるいは神戸信孝の所領である、と考えていたというのが私の大胆な推論?なのです。
結論の結論:
(信長にとって)光秀の軍勢が、本能寺を襲うなど[是非に及ばず]ではないでしょうか。
したがって、身は大名でも、飾り物または予備役に回されていたと思います。
そこへ御上からのたっての願いとあって、すでにお膳立てがすべてできている本能寺へ。
変後、公家は、おそらく征夷大将軍の宣下をして強引に明智を山崎の合戦へ送り出し、死地に向わせて、すべてをうやむやに終わらせようとしたのでしょう。
また、光秀の政策上、絶対に必要な織田信澄がなぜか殺害されたのも、偶然ではないように思います。
いずれにしても[一番得をしたものが容疑者]の鉄則通りだと思います。
いろいろと変後に書かれた史料をうんぬんするのはあまり意味がないように思います。
それより、伝承や残っている直筆の手紙などから人物像を特定するほうが利にかなっていると思い、意見を披露させてもらいました。